《1005》 勘三郎さんは、がんで亡くなったのか? [未分類]

勘三郎さんは、2クールの抗がん剤治療の3週間後に
外科手術を受けられました。

開胸、開腹で食道を摘出し、胃袋を胸に持ちあげて
代用食道とする大掛かりな手術だったと想像します。
右肩の122番のリンパ節も切除されています。

10時間の予定手術時間だったところ12時間かかりました。
ただし、この程度の遅れはいくらでもあります。
そして手術自体には問題は無かったと思います。

東京女子医大に転院後、数日してがん研の医師たちが
手術組織の顕微鏡検査の所見を伝えに訪れています。
「取った組織の段端に1個のがん細胞も見つからなかった」と。

これは、完全切除、を意味します。

がん細胞を1個残らず切除できたという意味です。
手術自体は100%成功したのです。
転院先まで報告に行かれた外科医の気持ちはよく理解できます。

しかし手術して6日目に、大量の嘔吐がありました。
胆汁を含む胃液が肺に入り、突然の呼吸困難が起こったようです。
なぜ、嘔吐したのかについては、私は知りません。

いずれにせよ、「嘔吐→誤嚥性肺炎」を契機に
勘三郎さんの容態は一気に悪化しました。
しかし献身的な治療により、一時は体力が回復しました。

11月5日は、家族はこのような説明を受けておられます。
「二酸化炭素が出せなくなりました」と。
これは肺が、肺気腫と似た状態であることを意味します。

ARDS(重症肺炎)とは、肺胞がつぶれて液体で満たされた状態。
その基礎には肺気腫や喘息があったものと想像します。
それが「動脈血中に二酸化炭素が貯まる」という意味です。

いずれにせよ、勘三郎さんの手術後の4カ月間は、
がんではなく、ARDSとの闘いでした。
最終的には、肺の問題が命取りになったようです。

1月15日に書いたように、がん患者さんは
がんで亡くなるとは限らないのです。
もう一度、読み返してみてください。

【PS】
阪神大震災から18年目の日です。
あの日のことははっきり覚えています。
東北の人も、18年経ってもはっきり覚えているでしょう。

あの日が今日の私の原点でした。
震災があったから、今日がある。
皮肉な話ですが、そう思います。

阪神の経験を東北に活かしたい。
そう思い震災4カ月目に本を書きました。
しかし、復興が遅れているのが残念でなりません。