《1022》 末期がんと共存してほぼ1年 [未分類]

Aさんの親友も同じ末期の肺がんでした。
私は、偶然、両方とも在宅主治医でした。
親友同士が、同じ臓器の末期がんだった。

当初は、友人がAさんのお見舞いに来ていました。
しかし年が明けてから、形成が逆転したのです。
友人の方が進行が早く、先に寝たきりになりました。

昨年は見舞われていた人が、年が明けたら逆に見舞っていた。
そしてあっという間に、その友人はご自宅で旅立たれました。
そしてAさんは、友人の葬儀に参列しました。

2週間後、その友人を偲ぶ会がありました。
私もAさんも出席し、一緒にお酒を飲みました。
早晩自分も逝く身であるので、複雑な気持ちだったでしょう。

「あいつ、私を追い抜いて行きよった・・・」
Aさんは呟きました。
「みんないつか逝くから同じだよ」と、私は心の中で呟きました。

そうこうしている間に、桜も散り、ゴールデンウイークと
なりました。
さすがに、Aさんは自宅から出ることが無くなりました。

本格的な在宅医療となりましたが、お口は元気でした。
私が訪問するといつも病気が嘘のように笑い声が絶えません。
絶対に無理だと思っていたGWも、無事通過していました。

「長尾先生、いつになったら私、死ぬの?全然逝けへんやん」
訪問するたびに、嫌味(?)を言われました。
「大丈夫、そのうちお迎えが来るから。毎日、楽しんで」

完璧な死に支度をしたのに、なかなかやってこない死を
不思議に思いながらも、1日1日を自宅で楽しむ日々でした。
昼、夜と、訪問診療するというより、寄り道していました。

その頃から背中の痛みが強くなってきました。
私は麻薬をどんどん増量していきました。
しかし衰弱も進み、素人が見ても明らかな終末期になってきました。

緩和医療をしっかりやりました。
不思議なことに在宅酸素は要しませんでした。
食欲も驚くくらいありました。

そんな中、Aさんは誕生日を迎えました。
子供さんや訪問看護師や友人たちとの誕生パーティーを企画しました。
ケーキをみんなで囲み歌を歌うと、Aさんは喜んでくれました。

その頃から子供さんたちが、順番に泊まり込みはじめました。
特にそう指示したわけではありません。
やはり子供達から見ても終末期と判断したからでしょう。

結局、2週間後の朝、Aさんも静かに旅立たれました。

Aさんは、抗がん剤治療を止めてから、8カ月間仕事を続け、
私たちと忘年会、花見、お誕生日会も楽しみました。
親友の葬儀や偲ぶ会にも、一緒に出席しました。

予想より、半年長く生きました。
あの時、ちょうどいいタイミングで抗がん剤を止めたからでしょう。
止めていなければ、もっと早かっただろうと私は思います。

今も、Aさんの笑顔と明るい声しか残っていません。
その家の前を通ると、中からAさんが出て来そうな気がします。
Aさんとの約1年は、生涯忘れないと思います。

抗がん剤の止めどきを、身をもって教えてくれました。
末期がんと共存しながら働けること、楽しめることを
私たちに教えてくれました。

【PS】
昨日は、大阪府岸和田市で、150人に
地域包括ケアや終末期医療に関する講演をしました。
その後、別の会で南大阪の在宅医たちと意見交換しました。

今日は、広島大学で広島市民に講演してきます。
1000人も入る会場だそうですから、
広島の方は、是非、遊びに来てください。

講演の合間を縫って、往診や看取りを続けています。
毎日、インフルやノロで右往左往しています。
今朝は、転倒→骨折でした。