《1309》 大隈重信候と最期まで食べる話 [未分類]

 

昨日は、佐賀摂食嚥下リハビリテーション研究会
呼んで頂き、「最期まで食べること」について
医療介護職と市民のみなさまに講演をしました。

この研究会は、10年前から続いている熱心な勉強会。
与えられた演題は「最期まで食べることと平穏死」。
「最期まで食べること」が「平穏死」であると話しました。

遠方なので前夜に、東京から佐賀に入りました。
佐賀空港という空港があることすら知らなかった。
東京からたった2時間で佐賀に到着しました。

恥ずかしいことに佐賀城があったことも知らなかった。
さらに恥ずかしいことに、
大隈重信が佐賀県出身であることも知りませんでした。

午前中、彼の生家の横に建つ「大隈記念館」を見学しました。
大隈候の一生を極々簡単に振り返ってみます。
彼は1838年生まれで、幕末の激動の時代を生き抜いた人。

32歳で参議へ。
35歳で大蔵卿。
44歳で早稲田大学の前身である東京専門学校を設立。
51歳で暴漢に襲われ右脚を切断、以降義足なる。
55歳で外務大臣になり不平等条約にとり組む。
60歳で第一次大隈内閣を組閣。
69歳で憲政党総理を辞任し早稲田大学総長となる。
76歳で第二次大隈内閣を組閣。
84歳で死去。盛大な国民葬が行われた。

私が特に興味を持った点を3つあげます。

彼の10代、20代は、実に破天荒な生き方です。
退学や謹慎や処分という言葉が並びます。
ものすごい正義感に駆られた勇敢な行動ばかり。

次に、彼が字を書かなかったことに興味を持ちました。
彼は一切字を書かず、残っているものはすべて代筆です。
交渉は常に、直接対面し、口頭で行いました。

現存する自筆は、17歳時の2点のみ。
あとはすべて代筆です。
生涯代筆で大学を造り、2回も総理をやったのです。

3つ目は、彼は本気で120歳まで生きようとしたこと。
51歳で障害者となりましたが、84歳まで長命でした。
極めて粗食であったからでしょう。

60歳と76歳で、2回も総理になっている点も興味深い。
100年前の人ですから、現在なら90歳で再び総理に!?
彼を動かすモチベーションはなんだったんでしょうか。

彼は、抜群に記憶力が良かったそうです。
演説をレコードに吹き込み、全国に配布。
イメージ選挙のさきがけでもありました。

紙に文字を書かないが、頭の中に沢山の文字を書いたよう。
彼は原稿無しで完璧な演説を、毎回異なる内容でしたそう。
どうも一般人と使っている脳の場所が違うような気がした。

佐賀に利益誘導せず、常に国益を考えて世界と交渉した。
近代日本があるのは、彼のお陰であると思いました。
あの早稲田大学のルーツを知ることもできました。

佐賀は、米が美味しく、魚が旨かった。
最期まで食べて豊かに生活するにはピッタリの地。
初めて行きましたが、また来たいと思いました。

今日は、これから四国は高松で開催される
四国在宅医療推進フォーラムで講演します。
新幹線は満員です。