《1329》 健康保険組合の方に平穏死の話 [未分類]

昨日は、健康保険組合の方に平穏死の講演をしました。
健康保険組合というのは、いろんな会社の社会保険の
集まりのことです。

いわゆる現役世代のみなさまが払われている健康保険料
は、診療報酬という形で医療機関に払われています。
医療機関で患者さんは「医療」という現物をもらいます。

どこの健康保険組合も財政難に悩んでいます。
というのも、集めた保険料の半分は支払った方の
医療費に使われますが、半分は高齢者に行きます。

すなわち自分自身で半分使い、半分は高齢者の医療を
養っていくのに使われています。
高齢者の医療費と現役世代の保険料は密接に関連します。

平穏死、尊厳死という考えを、私は決してお金のために
言っているわけではなく、人間の尊厳のために言っています。
そこだけは誤解して頂きたくないと話しました。

亡くなる前の1~2ケ月の医療費が高いことが知られています。
スパゲテイではありませんが管だらけになれば、そうでしょう。
しかし病院の先生はそうしたくてそうなるわけではありません。

一生懸命に治療していたら自然と管だらけになっていくのです。
一方、私が看取っている在宅という場では、管はありません。
本人が希望した場合のみ、尿の管を入れることがあるくらい。

では、管だらけの死と管の無い死は、どこからどのようにして
分かれてくのでしょうか?
どこに行っても聞かれる質問です。

昨夜は、厚労省の方も加わり平穏死について議論しました。
健保組合も厚労省も医療費と関連づけてイメージするかも。
しかし私自身は、医療費のために言っているわけではない。

ともすれば尊厳と経済は、相反するものと考えられがちです。
私自身は、両者は平行ないし充分両立するとイメージします。
そんなこんなで、あっという間に夜が更けていきました。

今日は、これから、たとえ末期がんになっても自宅で過ごす
方法を長崎県立大学で長崎県民のみなさまにお話をします。
生まれて初めての長崎に向かう機内でこれを書いています。

明日は、三重県で病院やホスピスのみなさまにお話をします。
「平穏死できる人、できない人 延命と縮命の分水嶺」です。
外にばかり出て、患者さんと職員には迷惑をかけどうしです。