先週は、在宅看とりがたくさんありました。
看とりになりそうな夜は、酒を飲みません。
それがちょうどいい節制になっています。
さて、家族と医療職と介護職が「待つ」ことができても、
ご近所さんが「待てない」ことが稀にあります。
医者が到着する前に隣のおばちゃんが救急車を呼ぶ場合。
おばちゃんは、「看取り=警察だ」と思いこんでいます。
そうならないように救急車を呼ぶことが「善」だと思っている。
あるいは最期もいろんな処置をしないといけないと思っている。
人は思い込みで動きます。
「在宅死=警察」という都市伝説は簡単には払拭できません。
医師法20条を説いていくら全国行脚しても焼け石に水です。
遠くの長男、長女はしっかりマークできたとしても
お隣のおばちゃんがノーマーク、なんてことがあり得ます。
全員が「待つ」というのは時にそれほど難しいことになる。
それは日本全体がそのような空気になっているからかも。
待たないこと=美徳
待つこと=悪徳
のような価値観がどこかにあるような気がします。
待てない隣人は、善意の人です。
救急車を呼んであげるのは、一般的には善行です。
そこに、「待つ」ことの難しさがあります。
さらにそこに駆けつけた救急隊員も善意の人です。
そして善意で「看取り搬送」をしてくれています。
しかし受ける病院の救急医には、負担になります。
善意の積み重ねなのですが、どこかで誰かに皺よせが来る。
それが勤務医の疲弊なのですが、多くの市民は知りません。
コンビニ受診、多重受診も同じような構造かもしれません。
(「待つ」という緩和ケアシリーズ 続く)