《1588》 (その6)旅行療法の恩恵 ~湯マニチュード入門~ [未分類]

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田中君(仮名)の両親が通う「大規模多機能」(正式には、地域包括医療介護センター)には、「放課後メニュー」の他に、もうひとつ目玉メニューがあった。

それは、独自の「旅行療法」というメニューだった。要介護「松」と「竹」の人だけが対象で、2カ月に1回、2泊3日のショートステイを小旅行に変更できるという特典が設けられていた。旅行費用はもちろんポッキリ料金に含まれるので、家族は安心して申し込めた。

同じ「お泊まり」といっても、いつもの施設と初めて訪れた小洒落た温泉宿では、刺激度、興奮度が全然違うことは容易に想像できる。いつもと違うお風呂に入り、美味しい料理を食べ、広々とした宴会場に座ると、要介護「松」や「竹」の人といえどいつもとは全く違う顔になる。なんともいえない嬉しそうな笑顔が見られるのだ。

数年前、ある町医者が某医学雑誌に「旅行療法の効果は抗認知症薬に勝る」という医学論文を発表したが、当時は誰も見向きもしなかった。しかし、1カ月ないし2カ月毎に小旅行を繰り返すと認知機能が改善するという話がクチコミで広がり、今ではあちこちの自治体から公費助成も出て真剣に取りくむ施設も増えた。

行き先は、施設からバスで概ね3時間以内にある温泉宿。チャーターした車椅子の電動昇降機がついたバリアフリーの観光バスで移動するが、一般の鉄道を利用することもある。介護者もほぼマンツーマンで同乗するので、1回の利用定員は15~20名人程度に限られる。だからその施設では『2カ月に1回、要介護「松」と「竹」の人だけ』となる。

「マルメ」制度の下、費用負担はかなりの額が施設側の持ち出しになる。しかし、行政からの多少の支援と同一法人内の黒字部門からの補てんで、なんとかやりくりしているという。

こうした小旅行を10回以上体験して旅行を楽しめた利用者は、それぞれ年1回ある「北海道コース」と「沖縄コース」への参加資格を得る。飛行機を使った2泊3日の滞在型旅行だが、これも好評だ。

2014年当時は、認知症で寝たきりになった100歳が飛行機で空を飛んだ例はほとんどなかった。しかし2020年にはかなり一般的で、それ専用の旅行会社、専用バス、専用旅館ができていた。

自治体によっては、100人単位で敢行するところもあり、飛行機をチャーターするケースも増えていた。旅行産業は元気なシルバー世代をターゲットにしてきたが、2020年には、こうした要介護世代も大きな市場になっていた。

施設職員を多く出すことは無理なので、毎回、NPO法人「まじくる」のなかにある「おでかけ隊」の有償ボランティアさんの協力も得ているそうだ。「非営利型ホールディング法人」の医療機関から医師と看護師がそれぞれ1名ずつ同行するので、医療面も万全だという。

ちなみに、病院の医師と看護師から見れば、仕事で2泊3日の温泉旅行に行けるということで毎回希望者が多く、抽選になることもあると聞いた。ただ日程は、日・月・火と決まっていた。この曜日帯が温泉旅館が一番空いていて安価だからだ。実際、旅館がほぼ貸切になったことが何度もあった。実は介護する側も夜遅くまで騒いで、日頃のストレスを発散しているという。

温泉療法は、日本では古代から行われている養生法だ。例えばA市から近い有馬温泉は、日本最古の温泉としても有名だ。温泉療法は、体を温めれば免疫能がアップするというデータにより、医学的にも裏打ちされている。温泉療法を研究する医学会も存在するなど、昔は「難病には温泉療法」が常識だったが、今は狭い家庭風呂が一般的になり、大きな風呂に入る機会が少なくなった。

要介護「松」と「竹」の人を温泉のお風呂に入れるのは大変な作業だ。男風呂と女風呂に別れなくてはいけないが、参加者は女性が圧倒的に多いし、介護者も女性が多い。一方で車椅子の移動には、若い男手が必須だ。

だから毎回、地元の看護学校やリハビリ学校の男子学生がボランティアで手伝ってくれる。また最近は、地元の医学部の医学生も手伝ってくれるようになった。ボランティア応募の動機を聞くと「将来、認知症を治せる医者になりたいから」など頼もしいことを言う。

こうしたボランテイアのアレンジをするのは、地元のNPO法人「まじくる」のスタッフだ。理事長さんは「学生の段階からこうして認知症の人と接してくれるのは嬉しい。医学・看護教育にこうしたアーリー・エクスポージャーを取り入れるべきだ」といつも話しているそうだ。

この温泉療法の恩恵にもあずかれたからだろうか、田中君の両親もどんどん元気になっていった。認知機能は改善し、今や周辺症状とも無縁だ。

考えてみれば、田中君も親が認知症になったからこそ、こんな楽しい小旅行に参加できるのだ。お父さんは胃ろうをつけているが、寿司やカニをほおばっている。お母さんは、手づかみでサイコロステーキを食べているが、介護者はみんな笑って見ている。そのほうが誤嚥しにくいことをみんな知っているからだ。

「この温泉療法は、別名『湯マニチュード』として知られることになったんだ」
「湯マニチュード?」
「そう、お湯が認知症の人を癒してくれるんだ。これもまだ世界は知らないことなんだ」

田中君は少し胸を張った。

(続く)