《1590》 (その8)あふれる「母ニチュード」 [未分類]

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田中君(仮名)のお父さんは、脳梗塞になってから寝たきりで胃ろう栄養の状態だそうだ。医療は「コウノメソッド」の恩恵を受け、介護の方は既にエビデンスを得た「湯マニチュード」や「犬ニチュード」により、それなりに楽しい毎日を送っている。

お父さんが脳梗塞を発症し、入院したのは2014年。介護の疲労も一因と疑われた。リハビリ病院に転院して2カ月頑張ってから家に帰り、在宅医療となった。

感情失禁など典型的な脳血管性認知症の症状が見られたが、特に生活に支障をきたす程度ではなかった。しかし、時々大声を出したり、気に入らない人が来ると暴言を吐いて周囲を困らせていたという。

リハビリ病院では「高次脳機能障害」という難しいお墨付きまで頂いていた。特に男性の総合リハビリ士に、とても厳しくあたっていたそうだ。「アホリハビリ、帰れ!」を連発しては、騒ぎまくっていた。病院からは、抑肝散という漢方薬とグラマリールという西洋薬が処方されていた。

脳血管性認知症は、どちらかというと「うつ」的になることが多く、日によって気分が異なる。機嫌が悪い時には、手がつけられない状況になることもある。感情の抑制が効かなくなるのだ。

田中君は一度、精神科も受診させていた。受診中に待合室で大騒ぎをして、入院させられそうになったそうだ。

そんな要介護「松」のお父さんの気分を穏やかにさせてくれたのは、ホームヘルパーさんだった。隠しきれないほどの豊満なバストに、お父さんの目がすぐに行くそうだ。小さなお子さんがいて授乳中のこともあり、バストが目立ったそうだ。お父さんはその胸の谷間を見ると怒るのを止めたとか。

お父さんの口癖は若い女性を見るとすぐに「結婚しよう!」ということだった。そのホームヘルパーさんは、実に洒落が分かる方で、豊かなバストを指摘されても怒ることなく、ニッコリ笑ってくれたという。

「お前、結婚しよう!」
「そうね。でも夫がいるからね」
「俺が殺してやる!」
「そうね、夫が亡くなったら考えてあげるわ」

お父さんとのエゲツない会話を、そのようにいつもユーモアで流しながら受け止めてくれたそうだ。そのホームヘルパーさんが来るとお父さんの笑顔が戻った。ケアマネさんにお願いして毎日来てもらい、脳トレのようなリハビリもやってくれた。まさに毎日の胸の谷間がお父さんを元気に変えていったという。

お父さんは、実際に手を出すことは一度もなかった。視覚と会話を楽しみたかったようだ。どうしてお父さんが、執拗に胸の谷間にこだわったのか、田中君は想像した。

「親父は、6歳の時に母親を亡くしているんだ。ずっと母親の影を求めていたのかもしれない。マザコンっていうのかな。あれほど豊満なバストに拘るのは、きっとバストに母性を求めていたのだろう。あのホームヘルパーさんも人のできた方で、そうした事情を推察していつも笑って受け止めてくれたんだ。親父が今あるのも、あの優しいヘルパーさんのお陰。彼女には感謝しているよ。まさに母性あふれるヘルパーさんだった」

僕は田中君の言葉を聞きながら、呟いてしまった。

「母ニチュード……」

いくつになっても、男性の母性への憧れは変わらないのだ。そういえば、グループホームの男性はいつも「お母ちゃん、お母ちゃん!」と叫んでいるなあ。父親への「母ニチュード」効果に気がついた田中君もたいしたものだ。

温泉でも犬でも母性でも、その人を癒す環境は大切だと改めて思った。そう、認知症は、環境がなにより大切なのだ。そしてどうしてそのような環境が好きなのかについても想像してあげることが大切だなと思った。まさに、認知症ケアこそ「ナラテイブ(物語)」なのだ。

(続く)