→ (その8)から続く
今(2020年暮れ)、田中君(仮名)のお母さんは容態があまりよく無いようだ。68歳の時にアルツハイマー型認知症を発症。現在88歳なので20年目になる。
認知症は全経過10年ないし15年と言われていることを考えると、長生きしている。在宅療養を選択し、様々ないいケアを受けてきた結果なのかもしれない。「68歳の若さで発症したのは不幸だが、平均寿命を越えて長生きしているのは幸福なのかもしれない」と、田中君は静かに語った。
要介護「竹」の枠内で毎日のように利用していた短時間型デイサービスも、最近しんどくなってきたという。デイサービスをしばらく休むと、少し元気になる。昔、町医者が言っていた「デイサービスのやめどき」という言葉を思い出していた。
食事量も徐々に低下した。同時に誤嚥性肺炎を2回起こして、訪問看護師さんによる点滴で乗り越えてきた。訪問栄養士さんは、半固形化の栄養剤を勧めてくれた。3カ月に1回、定期的に自宅で開催されるケア会議の席では毎回、在宅NST(栄養サポートチーム)による栄養評価と指導も受けてきた。そのお陰か、ここまで床ずれを一度も起こさずに来たが、そろそろ怪しくなってきたという。
そんなある日、田中君の友人が、町医者が書いた「胃ろうという選択、しない選択」という本を渡してくれた。帯には「ハッピーな胃ろうがある。アンハッピーな胃ろうもある、自然に任せるという道もある」と、3つの選択肢が提示されていた。
今、母親を前に3つの選択肢の意味が少しだけ分るような気がした。ちょっと昔の本だが、今読んでも内容は新しかった。人工栄養という「先進国に与えられた臨床倫理の中心となる命題」は、多少時代が変わっても本質は変わらないからだ。
田中君のお母さんは、65歳の時に日本尊厳死協会に入会し、「リビングウイル」を表明しているという。口から食べられなくなった時に、延命措置としての人工栄養は遠慮します、という書面にサインをしていたのだ。その意思に従えば「胃ろうという選択肢は無い」ことは、田中君は以前から知っていた。
しかし、いざそうした選択を目の前にした時、「リビングウイル」というものの意義について少し悩んでいた。というのも、在宅主治医に母親のリビングウイルカードを見せた時に、ちょっと困ったような顔をされたからだ。
◇ ◇
2005年に14万人もの署名を受けて発足した「尊厳死法制化を考える議員連盟」は、9年間にわたる議論を重ねていた。2014年の春には「終末期の医療に関する患者の意思を尊重する法律案」が国会で取り上げられることを目指し、政府与党も勉強会を重ねていた。
激しい議論になったそうだ。しかし結局、障害者団体、日本医師会、弁護士会、宗教界など多くの団体がこぞって「そうした法律は要らない」と法制化に強く反対し、実現には至らなかった。
各医学界も「ガイドラインがあるので充分」との姿勢を貫いたこともあり、法制化を考える議員連盟は2014年以降、活動の方向性を見い出せずにいた。
もっとも世間の関心は、同時期に盛んに行われていた集団的自衛権の解釈問題やTPP議論に移っていた。TPPと関連づけて「尊厳死できない世の中ではなく、もうすぐ尊厳死しかできない世の中が来るぞ」と発言する国会議員まで現れていた。
すぐお隣の国・台湾では、2000年に安寧緩和医療条例が制定されていた。2002年、2012年の2回の法律改定を経て、国民が納得できる終末期医療の模索が続いていた。
しかし日本においては、終末期に関する法律の議論自体が実質的に停滞したまま、数年が経過していた。2014年からは「終末期」という言葉自体が差別用語とされるようになり、「人生の最終段階」という言葉に置き換えられた。終末期や延命処置や尊厳死という言葉さえ、おおっぴらに使えない世の中に変化していた。
永田町や大手メディアがそんな空気であっても、「穏やかな最期」を希望する高齢者の数だけは「平穏死関連本」の売れ行きと並行して増えていた。
2020年の今、在宅医療を受けていれば、穏やかな最期を迎えられる可能性が高いことを多くの国民が知っていた。だから、「穏やかな最後の要求」は、次第に大病院に向けられるようになった。終末期の問題は、どうも高度医療を担う大病院という場において生じる問題であることに、市民やメディアは気がつき始めていた。
長い間起きていなかった終末期の医療を巡る裁判が、この1年間に4件も連続しておきた。1件は胃ろうの中止を巡る訴訟、1件は遷延性意識障害の人工呼吸中止を巡る訴訟、1件は高齢者の人工透析中止を巡る訴訟。そしてもう1件は、なんと緩和ケア病棟における終末期の鎮静(セデーション)を巡る訴訟だった。
いずれも遠くの長男ないし長女が、「殺人罪」を主張して担当医や病院管理者を突然訴えたのだ。医療界は驚いた。それまで「人の死に法律など必要ない。ガイドラインがあるので充分」という主張を繰り返していた医療界だったが、以後は終末期の課題を直視せざるを得ない事態を迎えていた。
全国各地の大病院では「人生の最終段階の医療を考える会」のような討論会が、患者さんも含めて盛んに開かれるようになった。地域においても市町村医師会が主催する同様の議論が、地域包括ケアの勉強会の中で頻回に行われていた。
◇ ◇
田中君は2018年のある日、母親のリビングウイル原本を持って母親と一緒に近くの公証役場に出かけた。土地や不動産などから少なくはない収入があった母親に、成年後見人とリビングウイルの代理人を定めることが目的だった。
成年後見人には、地域のリーガルサポートクラブの司法書士さんになってもらった。自分がなっても良かったが、第三者のほうが何かと煩わしくないと判断したのだ。一方、リビングウイルの代理人としては田中君自身を登録した。その時点で、母親のリビングウイルは田中君を代理人と定める「事前指示書」となった。
米国で開発された認知症テストである『MMSE』によると、母親の認知機能はもはや5点程度であり、高度認知症であった。だが、自分自身の医療処置に関する意思表示だけは充分可能と思われた。ただ、どこまで理解できているのかは誰も分からなかった。
公証人が「あなたは延命治療を断るのですね?」と質問すると「そんなもん要らんわ。そうなったらお陀仏じゃ!」と答えた。「事前指示書」には法的な効力はない。しかし田中君は、母親の「いのちの遺言状」の代理人として正式に認定された責任を感じていた。
◇ ◇
2020年、日本尊厳死協会は一般社団法人から公益財団法人になっていた。名称も「リビングウイルと豊かな生を考える会」に変わっていた。
4件の訴訟事件の影響があったからか、会員数は増加の一途。全国各地で繰り返し開催される会の催しは公益性の高いものばかりで、地元の高校生など若い世代の関心にも応えていた。
亡くなられた会員さんからの寄付が会の運営費に占める割合は、年々増えていく。そこには「多死社会における豊かな生をしっかり考えてほしい」という、先人たちのメッセージが込められていた。
リビングウイルという言葉が、ようやく市民権を得るようになってきた。そして認知症になっても大丈夫なように、代理人の署名欄も設けられていた。会はこうした事前指示書を厳重に管理していた。事前指示書といっても、リビングウイルが核となることは何ら変わっていなかった。
各界の有識者による「リビングウイル検討会」が重ねられた結果、リビングウイルの文面やあり方も大きく変わっていた。また全国各地で「リビングウイル研究会」が開催され、その運用についてさまざまな方向から現実的な議論がなされた。
なかでも認知症とリビングウイルに関する認識は、2014年当時と全く違うものになっていた。医学教育や看護教育はもちろん、高校教育の中でもリビングウイルは必修項目となっていた。「リビングウイルと豊かな生を考える会」の社会的使命として、リビングウイルの普及・啓発と厳重な管理が掲げられていた。ただ、法的担保に関する議論については、まだ停滞したままだった。
2020年においても日本はいろんな意味で特殊な国だった。軍隊を持たない国、自分の最期の医療を自己決定しない人が大半の国、家族の意思が本人の意思より優先する国……。決して皮肉ではなく、見事にガラパゴス化していた。
しかし、それでもそれなりに運営できてきた国でもあった。それは聖徳太子以来の「和」の文化とともに歩んできたからであろうか。
人生の最終段階の医療でさえ、自己決定しなくても家族がそれなりに代理としての役割を果たしてくれて、「和」をもって決定してくれるであろうという考えで十分通用する国だった。大切なことを曖昧にしておいても、イザとなれば「阿吽(あうん)」で成り立つことができる、ある意味とっても不思議な国であり続けてきた。
先進国で唯一、リビングウイルが法的に認められていない国。それは先進国で唯一、「阿吽」が通用する国でもあった。だがそうした日本文化も、TPPによる外資系保険会社の医療保険参入といった『黒船襲来』により、大きく変化せざるを得ない時期に来ていた。
本人や家族の意思ではなく、「外資系民間保険会社の意思」で人生の最終段階の医療が決定されるという転換期に来ていたのだ。それまで、リビングウイルに反対することに膨大なエネルギーを注いできた各団体は、反対・攻撃の対象をそれらの「外圧」に転じていた。
(続く)