《1596》 (その14・完)「おひとりさま」でも安心 [未分類]

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2030年末。2020年の東京オリンピックから10年が経過していた。

田中君(仮名)は72歳。典型的な「おひとりさま」の老後を迎えようとしている彼だったが、高齢者としてはまだまだ「駆け出し」に過ぎない。2021年に高齢者の基準が変わり、70歳以上が前期高齢者で80歳以上が後期高齢者と、従来より5歳ハードルが高くなっていたからだ。

両親の時代ならあと3年で後期高齢者となるはずだった田中君だが、今の時代ではあと8年も生きないといけない。それを思うと、嬉しいような悲しいような、そんな気分でいる。今や「人生85年」というけれど、実際には高校の同級生の4分の1以上は亡くなり、寂しい気分でいることは確かだ。

田中君は、70歳時にMCI(軽度認知機能障害)と診断されていた。両親が認知症だったし、62歳時の遺伝子検査でも認知症のハイリスクを指摘されていたので、覚悟はできていた。

2030年は「多死社会」のピークで、年間170万人もの人が亡くなる時代が到来していた。葬儀をしない“直葬”が増えたため葬儀場はなんとか回転できたが、肝心の焼き場が回らない状態が続いていた。今が多死のピークではあったが、ここからまだ20年間ぐらいは多死社会が続くことも国民全員が認識していた。

田中君は、両親を在宅で看取ったあと、ずっと「おひとりさま」のまま72歳まで来た。軽度認知症を指摘され、昨年、要介護「梅」と判定されたが、これまで特に介護保険のお世話にもならずに悠々自適で過ごしてきた。

2020年当時は、認知症が怖くて怖くて仕方がなかった。いっそ、がんのほうがいいと思った時期もあった。しかし今となっては正直、認知症まで辿りつけて良かった! という気分に変わっていた。というのも、同級生を男子に限ってみてみるとすでに3分の1が、がんで討ち死にしていたからだ。

2030年は、日本中が“徘徊ブーム”に沸いていた。「徘徊だもの」が2025年の流行語大賞を取って以来、子供から高齢者まで“徘徊ブーム”のなかにあった。

高齢者が徘徊することは当然のこととされ、止めるべきでないどころかむしろ認知症予防の第一条件にあげられていた。移動距離が長い老人ほど健康長寿であることが世界的に認められていたのだ。たしかに誰でも移動すると元気になる。2014年当時にはまだ半信半疑だったものが、今や常識となっていた。

反対に移動をしない生活は“絆”と呼ばれていた。2014年当時も“絆”という言葉がブームだったらしいが、2030年には“絆”という言葉は“不自由”や“しがらみ”の代名詞になっていた。

田中君は要介護「梅」だったが、週1回の最新型デイサービスを受けていた。その流行のデイサービスとは、大阪から東京にリニアモーターカーで行くことだった。大阪~東京間は、リニアモーターカーだとわずか1時間。飛行機より速いので、当時は大変問題(?)になった。

田中君は、東京で「デイサービス専用はとバス」に乗り、都内を周遊するのが週に1回の楽しみだった。120階の高層タワー最上階での昼食、天然温泉への入浴のあとは、午後2時開店の銀座のバーで一杯、そして一曲。

駅に戻ってリニアモーターカーに倒れ込み、ひと眠りしたらもう大阪に着いていた。まさに極楽、極楽。この最新型デイサービスは、当初はマルメ型の介護サービスに含まれていたが、あまりにも希望者が多いため毎回抽選制になっていた。

田中君はまさに「おひとりさまの老後」を満喫していた。2010年築の自宅は20年が経過した今、もはや古ぼけたマンションになっていた。しかし住めば都で、一番心が安らぐ場所だった。施設系在宅も含めた「在宅系看取り」が、約60年ぶりに「病院死」を上回ったのもこの年だった。介護保険制度の改良、近所の見守りの充実、看取り士やご近所さんの援助などの結果であろう。

とにかく「おひとりさまの老後」の最期は「平穏死」であることは、もはや国民の常識になっていた。それはまた医師法20条という80年間続いた法律の恩恵でもある。

2030年現在、平穏死が8割で延命死が2割。これは、2014年当時と真逆の数字だった。わずか15年で日本の終末期医療は大きく変わっていた。死といえば「枯れて死ぬこと=平穏死」が常識。「溺れて死ぬ=延命死」は、下手をすれば裁判沙汰になる言われ始めて数年が経っていた。

TPPの影響で、一部の民間保険会社も医療保険に参入していた。しかし保険者とは関係なく、「平穏死」は人権として認められていた。2014年秋、米国・シカゴで「死の権利・世界連合」が開催され、そこでの議論がきっかけだった。日本のある町医者が、一見他愛もないプレゼンをしたのだという。

その町医者は、自らの自然死をプロモーションビデオにして発表した。ただそれだけだったのだが、日本流の「枯れる」「看取り」そして「ヘイオンシ」は欧米人の心に強く響いた。以降、「おもてなし」と同様に「おかげさま」や「あうん(阿吽)」というキーワードが取り上げられるようになった。日本では当たり前のことだが、世界の人には新鮮な感動をもって受け入れられたのだ。

2014年にテレビで観た同級生の町医者のスピーチは、田中君もしっかり覚えていた。多少ボケてきた今でも、彼が発した「平穏死」という言葉だけは忘れていなかった。田中君が書いたリビングウイルは代理人署名も加わり、「公益財団法人・日本リビングウイル協会」で厳重に管理されている。

2030年の同窓会には、そのスピーチをした町医者の姿はもうなかった。聞くところによると、彼は昨年「インドに出かける」と言い残し、日本を出ていったきり帰って来ていないらしい。

「やっぱ、最期まで難儀な奴やなあ」

もはやたった10人しか集まらなかった同窓会だったが、その町医者の幸運を祈りながら、一同は乾杯をした。

(終)

以上は全て私の妄想であり、科学的な根拠もなにも全くありません。町医者の勝手な駄文として適当に読み流していただければ幸いです。

最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。