《1727》 震災が教えてくれたこと [未分類]

昨日は、神奈川県横須賀市で平穏死の講演でした。
今日は、滋賀県大津市で地域包括ケアの司会でした。
明日は、石川県加賀市でこれまた平穏死の講演です。

こうして現場を後輩に任せて全国をウロウロしていますが、
日々、心に迫ってくることがひとつあります。
それは1月17日が、刻一刻と迫って来ていることです。

20年前の阪神大震災は、私にとって大きな出来事でした。
現在でも、心の奥にいろんな想いがあります。
特にこの日を前に旅立たれた黒田裕子さんを想うと感無量です。

私は現在、30冊以上の本を出版していますが、
記念すべき第1冊目は「町医者冥利」という本です。
全然売れず、現在は絶版になっています。

しかしこの本は、私の原点とも言える記録です。
この本の最後の方に、今から19年前の1996年に
兵庫県相生市で話をした講演録が掲載されています。

しかし残念ながら、本書は現在では読むことは困難だと思います。
これから数日間にわたり、この講演録を分割してご紹介します。
19年前の講演録ですが、現在となにも変わっていません。

悲しむべきか。喜ぶべきか、よく分かりませんが、
とにかく数回に分けてご紹介します。
20年前のあまりに稚拙な文章が誰かの役に立てば幸いです。

(編集部注 : 一部の表記などをあらためています)

◇                ◇

第8章 震災が教えてくれたこと(講演記録)

1996年9月26日

兵庫の祭り ―ふれあいの祭典― 記念講演

はじめに

ご紹介いただきました長尾です。現在、兵庫県尼崎市内で内科医院を開業しております。本日このような場でお話をさせていただく機会をちょうだいし、心より感謝申し上げます。私のような若輩者に皆様のお役に立つ話ができるかどうかわかりませんが、震災の時に体験したこと、さらに日常診療の中で考えていることをお話しします。

あの大震災から早いもので、もう1年9カ月が過ぎました。ここにおられる皆様も同じ兵庫県人として直接的、間接的に震災を体験されたことでしょう。当時、私はたまたま被災地の中心にあった市立芦屋病院に勤務しており、その病院という特殊な場で実にさまざまな光景を見ましたので、その体験をお伝えしたいと思います。

震災の悲惨な様子

震災の前日、私は偶然にも西宮市内の神社を3カ所ほど参拝していました。最後に参拝したのは甲山の中腹にある神呪寺というお寺で、私の好きな空海の恋人が祀られていると聞き、そこを参拝しました。その日は天気も穏やかで、阪神間が見事に見渡せました。今考えると嵐の前の静けさのような一日でした。普段お寺参りなどは1年に1回もしないんですけれど、たまたま何の因縁か、とにかくそういう行動をしておりました。

さわやかな気分で家に帰り寝ていたところ、翌朝5時46分、あの激しい揺れにたたき起こされました。私は神戸市灘区の六甲山の麓にある築25年以上を経た老朽マンションに住んでいました。激しい揺れの瞬間、まず、「これは神様が怒っているんだな、むちゃくちゃに怒っているんだな」というふうに感じました。

マンションから六甲アイランド、ポートアイランドが一望できます。神戸市を非難するわけではないですが、

「勝手に山を削ったり島を造った、そのつけがまわってきたんだ」
「六甲山の神様が怒っている」

そういうふうに揺れの最中に直感しました。長方形の部屋が菱形になってきしんでいましたので、このまま建物が潰れて死んでしまうんだなと強く感じました。人間というのは、こんなに急に死がやってくるんだ。死はやっぱり突然やってくるんだなと感じました。

激しい揺れがおさまった後、廊下へ出ると隣のひとり暮らしの女性が、玄関のドアが開かずに泣いていました。向いのひとり暮らしの年輩の女性も、家具が倒れてパニックに陥っていました。とりあえず2人を助けた後、私はマンションの自治会長でもありましたので見回りをし、大きな人的被害がないのを確認し、市立芦屋病院を目指しました。

車で出発したものの、JR六甲道の駅が崩れ落ちて道路を塞いでおり、迂回しても倒壊した家々が道路を塞いでおり、なかなか(国道)2号線に出られません。道路の至る所に段差ができていて、まるで戦車のように進み、やっとの思いで2号線に出たのですが、1時間ぐらいしても車は渋滞でなかなか前へ進みません。

諦めて家へ引き返して車を置き、普段は車で20分ぐらいの距離を約2時間かかって病院まで歩いて行きました。一番被害の激しかった灘区、東灘区、芦屋の悲惨な状況のなかを夢を見ているような気分で歩いて行きました。

(続く)