《1730》 個人が社会を動かしていた [未分類]

私は現在、30冊以上の本を出版していますが、記念すべき第1冊目は「町医者冥利」という本です。私の原点とも言える記録です。

この本の最後の方に、今から19年前の1996年に兵庫県相生市で話をした講演録が掲載されています。

本が絶版になっているため、現在では読むことは困難だと思います。数日間にわたり、この講演録を分割してご紹介します。

19年前の講演録ですが、現在となにも変わっていません。悲しむべきか。喜ぶべきか、よく分かりませんが、とにかく数回に分けてご紹介します。

約20年前の文章が、誰かの役に立てば幸いです。

(編集部注 : 一部の表記などをあらためています)

個人が社会を動かしていた

これをきっかけに、翌朝から市立芦屋病院から大阪市医療センターの間に組織的な患者の転送作業が始まりました。これは後に新聞に「芦屋大阪ルート」という名前が紹介されましたが、このルートのおかげで結果的に多くの人が救われました。

ではどうして24時間以内というきわめて早期に、神様の使者が我々の病院に来てくれたのでしょうか。

その経緯は私も後になって知りました。その日の夕方、大阪市の消防隊がたまたま芦屋市の救護所から患者を大阪へ搬送していたそうです。それを見た芦屋の、ある開業医の先生――その先生は自分の医院が全壊し、自分自身も頭から血を流しながら昼過ぎまで、芦屋病院でボランティアとして救急処置に加わっていましたが――その先生がたまたま救急車をつかまえたんです。それに便乗し、大阪市医療センターまで行きました。着いたのは夜7時頃だったそうです。

大阪市の救急医療センターの所長先生は、朝からベッドを空けて転送患者を待ってくれていましたが、全然運ばれてこないので不思議に思っていたそうです。そうしたら、その血だらけの開業医の先生が飛びこんできて、とにかく芦屋には患者がいっぱいいるんだけれども、うまく転送できないんだということを直訴したそうです。それで救急部長の先生は、「待ち」ではダメでドクターカーを入れ、自分たちから現場に入ることを即決されたそうです。

地震の当日は応急処置が中心でしたが、翌日からは重症の患者をいかに選別するかが重要な仕事になりました。一見元気そうに見えても、クラッシュ症候群に陥っている人も多く、各病棟の医師が重症者をピックアップし、部長がそれを総括して優先順位をつけ、救急車が来たらその順に運んでいく、この作業を必死で続けました。

患者を受け入れてくれたのは、大阪市だけではありません。

例えば三田市民病院にもお世話になりました。三田市民病院では震災当日に会議を開き、患者を受け入れるベッドを確保することを決め、50人ほど比較的元気な入院患者さんに急きょ退院してもらったそうです。三田市へのルートの他にも、我々は個人的な友達、先輩の病院へ連絡し、受け入れ交渉をしました。非常時には個人的なコネクションが、いかに大切かということを痛感させられました。そうして数日間にわたって転送作業が繰り返されました。

数字はあとで知りましたが、結局約150名を転送いたしました。150名といっても、救急車には1回に1人しか乗れませんし、一往復に交通渋滞のため何時間もかかるわけですから、これはたいへんな作業でした。搬送後にクラッシュ症候群と診断された方が20人、そのうち残念ながら亡くなられた方が3人という結果でした。

クラッシュ症候群の患者さんで「芦屋大阪ルート」で運ばれた方は、非常に運がよかったと後に新聞で報道されました。たまたま芦屋市が大阪に近接しており、地理的な利があったのかもしれません。最初の一日が勝負だと言われていますが、なかなか転送できなかった病院もあったようです。我々の病院はそういう意味では幸運でした。

行政の対応の遅さについては、非難すれば限りがないと思いますが、新聞によりますと、政府が医療対策が必要だと判断したのは地震から2日後だそうです。実際に医師団の派遣のような活動を始めたのは1週間近く経ってからです。

しかし、災害医療で一番大事なのは、地震当日と次の日なのです。ですから政府の対応の遅さ、危機感のなさは、呆れるのを通り超して、こっけいにも感じました。例えば1人の患者を救急車で転送するのに困難を極めた当初の状況下では、ヘリコプターでの輸送が可能なら、どんなに多くの人が助かるだろうと切実に思いました。

しかし、ヘリコプターでの輸送許可が下りたのは、1週間たってからでした。それくらい「公」の対応は後手後手になっていました。

もう少し震災時のエピソードをお話ししますと、当初は病院の食事について公的な支援など当然なく、病院の栄養士の方と給食の方が一生懸命米屋さんを回って米を集め、ガスが使えないために寮の看護師さんから電気炊飯器を10個ぐらいかき集め、フル稼働させて米を炊いていました。最初の2~3日間は、給食はおにぎりだけでしたが、この方々の献身的な努力のおかげで、飢え死にせずになんとか乗り切ることができました。

ある看護師さんは自宅が全壊したにもかかわらず、1週間休まずに泊り込んで働き続けました。またその日が非番だったある看護師のお父さんは、「きっと病院がお前を必要としているだろう」と、朝一番に大事な娘さんを車に乗せ、あの混乱した状況の中、病院に送り届けました。これらのことは、なかなかできることではないと思います。

もちろん病院スタッフだけでなく、多くの医療ボランティアの方々も大活躍されました。特に我々の病院は、大阪市立大学と京都府立医大の医療団の方に、早朝からお世話になりました。

どうしてその2つの団体の対応が、震災後24時間以内と異例に早かったのか。実は大阪市立大は南港のニュートラムの事故、京都府立医大は信楽高原鉄道の事故の体験を教訓とし、現場へいち早く飛び込む態勢ができていたそうです。

私が一番お伝えしたかったのは、個人の速断があの非常事態下で社会組織を直接動かし、多くの人の命を救い得たという事実です。1人の開業医の先生が作った細い1本の線が、救急部長の素早い決断と出会い、翌日には大きな川の流れとなって、結局150人もの方々を早期に転送できました。「公」ではなく「個」の判断が、あの非常事態下では多くの人を救いました。

(続く)