あなたにとって、「尊厳」とは何か?
長尾 では、今まで「死」を目の前で一度も見たことがないという人は?
ああ、やはりいるんだね。
では、見たことがないというあなた、「死」に関して、どういうイメージを持っていますか?
生徒Ⅲ 厳かなもの。
長尾 厳かなもの、ですか。漠然とだけど、そう感じるということですね。
「尊厳死」の「げん」は、「厳か」という字です。尊くて、厳かな死と書いて、
「尊厳死」。ちなみに、「尊厳死」を広辞苑で引くと、こんなふうに書いてあります。
【尊厳死(そんげんし)】 一個の人格としての尊厳を保って死を迎える、あるいは迎えさせること。
近代医学の延命技術などが、死に臨む人の人間性を無視しがちであることへの反省として、
認識されるようになった。
しかし、「人間の尊厳」とは何か?
といざ問われると、人によって答えはバラバラなようです。
以前も別の場所で「死の授業」を行った時、「あなたにとっての尊厳とは?」と訊ねたら、
実にいろいろな答えが返ってきて、面白かったのを覚えています。
「自由」と答えた人もいれば、「家族」と答えた人もいました。
中には、「幸せのカタチ」と答えた人もいます。「尊厳とは?」という問いに、
明確な答えなどないのだとあらためて感じました。
人それぞれで、違っていていいのだと思います。
目には見えませんが、自分にとって絶対的に守りたいもの、守るべきもの。
もしかすると、それが、「尊厳」というものなのかもしれません。
親父の自死が、私の原点
長尾 私自身も、高校生になるまで「死」を見たことはありませんでした。
私が人生で最初に見た「死」は、実の父親の「死」でした。
親父は、長年うつ病を患っており、大学病院に入退院をずっと繰り返していました。
今では、うつ病で大学病院にいて入退院を繰り返す、というケースはあまりないと思うのですが、
当時はそういうものでした。
しかし、退院をするたびに、徐々に状態が悪くなっている。
子ども心に、それが不思議でたまりませんでした
しばらく病院にいたのなら、良くなって自宅に帰ってくるべきなんじゃないかと、納得がいかなかったのです。
あれは私が17歳の冬でした。おもむろに、一緒に京都に行こうと親父に誘われたのです。
それが、親父と私との最初で最後の二人きりの旅行になりました。親父は、その京都で私を置いてけぼりにして、
自死をしたのです。首つり自殺でした。
このあたりの経緯は、今ここで若い皆さんにお話するのは気恥ずかしいので、
この『長尾和宏の死の授業』という本を読んでもらえればと思いますが……
つまり、私が人生の最初に目撃した「死」。
それは、身元確認のために呼ばれた警察署の遺体安置所で見た、冷たくなった親父の姿でした。
今でも人生の中で何がいちばんショックだったか? と訊かれたなら、あの日のことを思い出します。
「喪失感」という言葉の意味を、初めて身を持って知った時でもあります。
何せまだ、17歳でしたからね。だから私は医者という仕事を選び、親父が死んだ歳を自分が越えた今、
死に関する本をたくさん書くようになったのだと思います。
今も尚、父親の生きざま死にざまが、私の人生に大きく影響を与えているのです。
「死」について、誰かと話し合ったことはありますか?
長尾 では、別の質問をしましょう。今まで、「死」について、
家族や友達と、真剣に話し合ったことがあるという人、手を挙げて。
生徒Ⅲ 僕は今、研修医として病院で働いています。その病院は、160床くらいの中小病院で、
地域密着型ということもあって、認知症の人がたくさん入院して来られます。
日々、認知症の患者さんたちを見て、看護師さんとこんな話をしました。
「僕はやっぱり、認知症になりたくない。認知症になる前に、死ねたらいいな」って。
長尾 なぜ、認知症になりたくないのですか? もちろん認知症は、なりたくてなるものではありませんが、
でも、認知症になってから死んでもいいんじゃないのかな?
生徒Ⅲ それでは周りの方に迷惑をかけてしまいます。自分が見た中で、
一番ひどかったのは、自分の便を食べていた認知症の患者さんです。
長尾 なるほど。自分の便をもてあそぶことを「弄便(ろうべん)」っていうんですね。
昔、有吉佐和子さんが『恍惚の人』という素晴らしい小説を書かれていて、その中に弄便のシーンがありました。そ
のシーンを、あなたは現場で実際に見たわけですね。そして、そうなる前に、死にたいと思った。
生徒Ⅲ そうなんです。
(続く)
(参考文献) 「長尾和宏の死の授業」(ブックマン社)