《1795》 終末期は、誰が決めるもの? [未分類]

長尾和宏の死の授業 in 東京大学・9》

終末期は、誰が決めるもの?

長尾  「余命宣告」を受けたからといって、その告知通りに死ぬとは限らないという意見が出ました。とても鋭い意見です。実は、日本で尊厳死の法制化がなかなか進まない理由のひとつに、「余命」「終末期」の定義の曖昧さがあるのです。どんなにキャリアを積んだ医師であっても、余命って、意外に当たらないものなのです。(笑)

生徒X  そもそも、終末期って、医師が決められるものなのでしょうか?

長尾  またもや鋭い質問です。余命や終末期って、誰が決めるんだろうか? 難しい命題です。私は、「誰にもわからない」という前提に立って、在宅医療を行っています。本人も家族も、ましてや医師もわからない。あくまでも予測であり、予測だから、ときどき、大きくはずれます。

確実に分かるのは、その人が死んだ後から、です。死んでから、「ああ、あの時あたりからが、終末期だったのだ」ということが確実にわかります。

逆に言えば、誰も終末期がわからないから、大病院では、死の直前まで抗がん剤をやったり、人工栄養をやったりして、管だらけで死んでいくケースがままある、ということなのです。末期のがん患者さんであっても、「まさか今日、亡くなるとは思わなかった」ということはいくらでもあります。

生徒IX  しかし、先ほど先生の仰った<リビングウィル>は、終末期になったら延命治療はやめてくださいという意思を示したものですよね。それでは、今のお話と、矛盾しませんか?

長尾  そうなんです。定義はできません。でも、だからって終わってからじゃ、遅い。だからこそ、一人の医師の判断で「終末期化否か」を決めるのは危ういとの意見もあります。できれば複数の医師が関わり、本人の意思を汲み、なおかつ、家族や医療者が何度でも話し合う「プロセス」こそが大事なのだと私は何度も言っています。何も、本人に<リビングウィル>があったからといって、すぐに延命治療を中止できる、というものではないのです。

生徒VII  がんの終末期でもわかりにくいなら、他の病気の場合は、もっと終末期がわかりづらくはないですか?


「枯れて」死ぬのか? 「溺れて」死ぬのか?

長尾  その通りです。がんの終末期は、比較的わかりやすい。しかしこれが、たとえば認知症によってゆっくりと全身が弱っていく場合は、終末期は非常にわかりにくいものになります。認知症か老衰かもなかなか定義はできません。

それで、口から食べられなくなったときに、上手なケアがあれば、本当はまだ食べられるにもかかわらず、誤嚥性肺炎を起こすのを怖がって、胃ろうに切り替えてしまう。

その後、徐々に意識がなくなっていき、ご本人と意思疎通ができなくなった状態になったとき、家族と医療者が、せめて、胃ろうをやめるかどうかといった、「延命治療のやめどき」を話し合えるような環境を作っていかなければならないと、私は思っています。

日本語で言うところの「尊厳死」という概念には、、このような胃ろうの「不開始」、つまり最初からやらない、だけでなく「中止」、という選択も含まれます。

生徒III  では、「平穏死」は?

長尾  胃ろうについての考えは、ほぼ同じです。よく、「俺は枯れるように死にたいんだ」と言う人がいますよね? 非常に観念的な言葉に聞こえるかもしれないけれど、実は、終末期医療においても、それは理想の死に方であると私は考えています。しかし、現代というのは、実は「枯れて死ぬ」のがむずかしい時代なのです。

人が歳を重ねて老いるということ、これは実は、水分量の変化でもあります。私はよく、講演会でこんな図を出すのです。干し柿です。これを出すと、会場のお婆ちゃんたちは爆笑するのですが……。


長尾
  現代の医療では、身体が自然に死へと向かっている状態においても、「このままでは脱水になるぞ!」「栄養不足になってしまうぞ!」と、たくさんの点滴をします。人生の終末期で寝たきりで意識のない人にでも、1日に2リットルの点滴も日常茶飯事です。

その結果、ひどくむくみます。ぶくぶくの状態になって「亡くなったときの顔が、元気だった頃の顔とぜんぜん違いました」と嘆くご家族の方もいます。

そういう状態で亡くなっていく患者さんの姿を見るたびに、「平穏死」の反対語は「延命死」だと感じます。「延命死」は、私に言わせれば、「溺死」なのです。水中ではありません。ベッドの中で、溺れて死んでいく。これが現代の延命治療の結末です。

生徒II  そんなに見た目が違うのですか?

長尾  たとえば、同じ病状で、大学病院で亡くなった方のご遺体と、老人施設で亡くなれらた人がいたとします。亡くなった直後の体重を量ってみると、平均的な体重差が十キロ以上あるのです。溺れると、胃腸の腸管壁がむくみます。腸閉塞を起こして嘔吐します。そして心臓は、心不全を起こします。肺は、肺水腫を起こして、いわゆる「泡を吹く」状態になります。本人は、非常に息が苦しい状態です。

だから、酸素マスクをつけなければならない。認知症で意識が低下した人に酸素マスクをすると、邪魔だから無意識にはずそうとします。はずさせないために、病院では患者さんを縛りつけます。縛られると患者さんはどうなりますか?

一同  ……。

長尾  暴れるに決まっています。皆さんだって、同じ状態になれば当然暴れるでしょう。手足の自由を奪われるわけですから。暴れて、大声を出します。

大声を出されると、隣の寝ている病人さんが眠れませんから、今度は鎮静剤を投与されます。これをセデーションともいいます。セデーションとは、薬を使って、医療者が意図的に、患者さんの意識を落とすことです。ドルミカムという薬がよく使われているようです。

※このあたりのことは、アピタルの776回(2012年6月)で詳しく書いています
 → http://apital.asahi.com/article/nagao/2013012500020.html

生徒X  在宅医療ではセデーションを行わないのですか?

長尾  私は行いません。というか必要と感じたことが無い、というのが正直なところです。

なぜか?

在宅医療で終末期を迎える場合――少なくとも私が診ている患者さんでは、溺れている状態の患者さんはいないからです。溺れていなければ、それほど苦痛も伴いませんから、セデーションで患者さんの意識を落とす必要もないのです。

つまり、「平穏死=枯れて死ぬ」という概念を医師も家族も知っていれば、深いセデーションは必要無いと思う。脱水に伴い徐々に意識が低下していきますが、これこそが「自然のセデーション」ではないでしょうか。考えてみてください。太古の昔から、人はセデーションなんて必要なく、自宅で枯れて死んできましたから。

しかし研修医を寄こしてくれる大病院では、なんと半数の患者さんを深く眠らせているそうです。それが最高の医療だと、研修医も信じている。セデーションを必要とする状況に追いやっているのは自分たちなんだ、と気がついている医者は皆無のようです。

生徒一同  ……。

(続く)

(参考文献) 「長尾和宏の死の授業」(ブックマン社)