《1802》 「死」は誰のもの? [未分類]

長尾和宏の死の授業 in 東京大学・16》

SMAPやAKBがバラエティ番組で死を語る時代に

 
長尾  私はこの2月に、フジテレビの特番『中居正広の「終活」って何なの? ~僕はこして死にたい~』という番組に解説で出演させていただきました。本邦初、土曜日のゴールデンタイムに「死」をメインテーマに、各著名人が向き合った番組でした。この中で、観た人はいるかな?

生徒  (数人手を挙げる)

長尾  ひとり、ふたり……以外に少ないなあ。東大生はあまりテレビを観ないのかな(笑)。視聴率は結構良かったんだけどね。

各世代の、今をときめく人気タレントさんが出演されました。あなた方とほぼ同じ世代では、AKBの指原莉乃さん、もう少し上の世代では光浦靖子さん、坂上忍さん、北斗晶さん、さらにシニア世代として私の大好きな綾小路きみまろさん、中村玉緒さんなども出られ、さまざまなVTRを見ながら、世代を超えて、死生観を語り合ったのです。しかも、SMAPの中居さんがMCという豪華メンバーで。数年前では、こんなことは考えられなかったでしょう。ゴールデンタイムに「死」の情報をお茶の間に届けること自体、タブーだったはずですからね。

テレビ番組が、ようやく「死」に向き合ってくれるようになりました。多死社会に直面し、もはや無視できなくなってきたのだと思います。そして、読書体験と違って、テレビ番組というのは、同じ瞬間に家族皆が、同じものを観て語り合うことができるという利点がある。読書は〝個人的な体験〟ですが、テレビ視聴というのは〝家族的体験〟となりうるのです。家族だからこそ、ふだん話しづらい「死」というテーマを、バラエティ番組をきっかけにして本音で明るく語り合ってほしい。

「私はこう死にたいけど、お父さんはどう死にたいと思っているの?」

 というふうに、そこからリビングウィルを作るきっかけになるかもしれない。だから私は、今後もこうしたテレビ番組が作られるのなら、協力を惜しみません。死の問題と、家族の問題はセットだから。ここで一つ、変な質問をしましょう。

  

そもそも、「死」とは誰のもの、だと思いますか?

生徒Ⅱ  死とは誰のもの? もちろん、自分の命ですから、自分のものかと……。

長尾  当たっています。だけど、必ずしも「自分のものだけ」とは言えない部分があるのが、「死」なのです。

ものすごく当たり前のことなのですが、死んでショックなのは、いつも他者なのです。自分ではなくて。だって自分は死んじゃっているのだから。禅問答みたいな話になっていますが、私は今まで、「自分が死んでショックだ」と言う人も、「私は死ねてよかった」という人も見たことがない。

生徒一同  笑い

長尾  だから、死とはいつだって二人称か三人称。二人称の死、つまり大切な家族の死もこれに当たりますね。二人称の死は、たいていショックで悲しいものなのです。後からまたお話したいと思いますが、これからの医療者は、<二・五人称>の視点で死と向き合っていかなければなりません。


「下から目線」で死を考えよう

長尾  ここまで、欧米で起きている死の話題をいくつか例として挙げました。

しかし、「家族の問題」をからめて死を考えるには、やはり近隣のアジア諸国がより参考になります。欧米の各国で安楽死が可能なのは、日本と違って、自己決定が何よりも最優先されるから、ということもあります。私はこんなふうに考えています。

 

   人生の最終章の医療、誰の意思が優先する?

欧米 →  本人の意思 > 家族の意思

 日本 →  本人の意思 < 家族の意思 

  

お隣、台湾でもそうでした。台湾は、日本以上に家族を敬い、大切にする文化があります。同時にアジア圏内では唯一、尊厳死法(安寧緩和医療条例)が成立している国でもあります。

(安寧緩和医療条例についての詳細は、アピタル<1279>を参考してください。→ http://apital.asahi.com/article/nagao/2013101800002.html

私は昨年、台湾の終末期事情を視察に行きましたが、そこで驚いたことがありました。台湾の人達は、「自分の家で死ぬ」ことにこだわりをもっています。

死んだあと、日本でいう四十九日までは、故人の魂は、その人が死んだ場所から動けないという言い伝えがあるのです。

生徒Ⅳ  だから病院で死にたくないということですか? 病院から霊が出られないと?

長尾  そうです。ただ最近では、台湾も都市化と核家族化が進み、病院死と在宅死の割合が逆転してしまいました。それでも可能な限り、愛する家族に家で死んでもらおうとする。病院で終末期を迎え、「もってあと一日」と言われた人を、家族が背負って連れて帰り、家で絶命。「ああ間に合ってよかったね」とほっとする、と言う人もいました。

生徒Ⅱ  なんだか日本と逆ですね。

長尾  確かにそうです。日本では「家で死なせたい」とギリギリまで家族が頑張っていても、いよいよあと数日というところで、「やっぱり家族の死と向き合うのが怖い」と救急車を呼んで病院で最期迎えるというケースがままありますからね。つまり、死についてのシミュレーション、イメージトレーニングがうまくできていないのです。これに最適な体験があります。<棺桶体験>です。私は50歳の誕生日の時、生前葬として棺桶に入りました。それがこのときの写真です。

長尾  怖いですか? でもこれ、私なんですよ。で、昨年台湾に行ったときも、ある医療系の専門学校で死亡体験カリキュラムがあることを知り、再び棺桶に入ってきたのです。台湾の棺桶は日本より豪華でした。白装束を着せられ、棺桶に入る前に家族や大切な人へあてたメッセージを書き、しばし心の準備をします。そして、棺桶に入ると、ご丁寧に釘を打たれます。

真っ暗闇の中で、トントントントン……と釘を打たれる音だけが脳内にこだまするのです。すると、たった数分の出来事ではありますが、「ああ俺は死ぬんやなあ」と普段は味わえない境地を彷徨う。これは一人称で死を考える、貴重な時間となります。不良学生にこれをさせると、改心する子もいるそうです。

 


長尾
  生きている人たちのことを、棺桶の中から想う。これ、「下から目線」です

ふだん我々は、死は敗北だと考えるから、どうしても「上から目線」になりがち。だからこそ、棺桶に入って、「下から目線」で死を考えてほしい。私は、これからも若者に向けて、「死の授業」を地道にしていくつもりですが、可能であれば棺桶を持ち込んで、生徒さんひとりひとりに入ってもらいたいのです。残念ながら今日はありませんけれども(笑)。

(続く)

(参考文献) 「長尾和宏の死の授業」(ブックマン社)