《長尾和宏の死の授業 in 東京大学・19》
二・五人称で死を考える医療者になろう!
先日私は、ノンフィクション作家の重鎮である柳田邦男氏と、尊厳死協会の会報誌で対談しました。
来年で80歳を迎えられる柳田先生は、仕事の総括として、科学主義・法規主義の現代に人間性を取り戻すために、『二・五人称の視点』というタイトルで本をご執筆中だそうです。柳田先生は、ちょうど今の私と同じ歳の頃、息子さんを亡くされています。
その克明な記録は、『犠牲 ~サクリファイス~ わが息子・脳死の11日』というご著書に見事にまとめられています。脳死状態の息子さんと11日間ものあいだ、ベッドサイドで柳田さんは、「魂の会話」をされたそうです。そのときに気がついたことが、
「生」と「死」には、人称性がある、ということだったそうです。
たとえば、がん末期で標準的治療が適応できなくなった時、医師は「もうすることがない」となる。客観的な判断ができる。これが、三人称。
しかし、医師から「もうすることがない」と言われた時からこそ、人生の最終章、生と死を見つめる時間が始まる。本人(一人称)と家族(二人称)の関係性によって、平穏死ができるかどうかまで繋がるわけです。
つまり、医療者において今後大切なのは、「やることがなくなったらもうその患者さんは、自分とは関係ない」という三人称の視点ではなく、いかに本人やご家族と寄り添えるかという取り組み、人間の個性や個別性をもっと汲み取る姿勢、それを柳田先生は「二・五人称」という言葉で体現したのです。
素晴らしい言葉だと思いました。私も微力ながら医療者、そして介護者のあいだにも、この言葉を広めていきたいと考えています。
今の医療者は、それぞれ患者さんのキュア(cure)とケア(care)のどちらを重要視するかで揺れています。行き過ぎた医療に対し、「キュアからケアへ」と提唱する人も多くいます。一方、「ケアに重点を置き過ぎだ!」という動きもあります。
しかしこれも、どちらを重視するべきかをわざわざ議論することはあまり意味がなく、「二・五人称」で一人ひとりの個別性について考えていけばいいことなのではないか、と私は考えています。
セラピー犬シャネルと二・五人称
先日発売された、『下半身動かぬセラピー犬 シャネル ~緩和ケア病棟の天使たち~』というフォトエッセイがあります。この本に私は解説を書きました。いま、医療と福祉の現場でにわかに注目を集めているセラピードッグですが、実はこうした犬たちは、はからずも動物的な直観で、「二・五人称」の視点で患者さんの最期に寄り添っているような気がしてならないのです。
このセラピー犬シャネルを紹介した、可愛らしい3分半の動画があります。シャネルはこの1月に本の出版を待たずに「平穏死」したそうです。最後にこの動画を観ながら、患者さんに寄り添うことの本当の意味を、皆さんそれぞれが考えてほしいと思います。
『下半身動かぬセラピー犬 シャネル ~緩和ケア病棟の天使たち~』 (撮影:国見祐治)
https://www.youtube.com/watch?v=J5LYKJDrds4
そして、本書によせた解説文を特別に公開し、【死の授業】を終わりたいと思います。
長時間、どうもありがとうございました。
~痛みに寄り添うとき、言葉はいらない~
長尾和宏
泣いてしまった。
大の男が、いい歳をしたオッサンが、なんで犬の写真を見て泣いているんだろう?
自問自答しながらまだ心が泣いている。だけど決して、悲しい涙だけではない。こんな温かな人間のドラマ(犬のドラマ?)が、イヤなニュースばかりが蔓延(はびこ)る我が国の医療の世界にあったのだ、という嬉し涙でもある。
私は尼崎という下町の町医者で、在宅医療にも応えている。この本に出てくる緩和ケア病棟の患者さんと同じような状態の患者さんを、在宅で多く受け持っている。人生の最終章を、住み慣れた家で〝生ききりたい〟と望む在宅患者さんには、我が子同然で長年暮らしてきた犬や猫がいる場合も結構ある。「遠くの息子や娘はどうでもええけど、この子の行く末が心配だから、まだ死ねません」と犬をぎゅっと抱いたまま離さない患者さんと、さっきも話してきたばかりだ。
私も犬が大好きなので、気づけば患者さんご本人よりも、その方の飼っている犬のほうにばかり話しかけてしまうこともある。
「ハナ、最近のお父さんの調子はどうだい? 実はハナが一番、お父さんの体調を知っているんだろう?」
介護ベッドの下で微睡んでいる犬にそう話しかける。すると、濡れた黒い瞳からこんなメッセージが伝わってくることもある。
「うちのお父さん、最近元気ないの。だから私もなんだか哀しくって」
家族には、言えないことがある。担当医や看護師に言えないことだって、もちろんある。そんな患者さんの胸の内を本当に知っているのは、愛犬だったり、愛猫だったりする。この本を見て、その想いは確信へと変わった。そして今なぜか、僕は自省の念にかられている。患者さんが「痛い」と訴えてこられた時、医療者としては、どんなふうに痛いのかをまずは訊きださなければならない。
「どこが痛いの?」
「いつから痛いの?」
「どんなふうに痛いの?」
「痛みの強さは、どれくらいなの?」痛みの内容をできるだけ具体的に患者さんから教えてもらわなければ、医者は正しい治療ができないからだ。だけど一方で、そんなことをいくら訊き出したところで、正確にはわかるはずもないとも常に感じている。痛みというのは、人によって千差万別である。なぜなら、脳が感じるものだからである。つまり同じ刺激を受けても、その痛さは、個人の過去の経験や心の状態によって、1だったり10だったり、時には100だったりもするのだ。
「人の痛みがわかる人間になりなさい」
昔も今も、学校の先生は子どもたちに教えているだろう。しかし、それはどだい無理な話だ。そして、人の痛みを“わかったふり”をする偽善者になることが、一番良くない。
あれ? もしかして――。こう書いている僕自身が、知らず知らずのうちに偽善の医療者になっていないだろうか。この本を見ていたら、そんな気持ちになってしまった。わからないものに対して、「わからない」と言える勇気を失くしてしまった大人になってはいないだろうか。
シャネルは青木さんに、「あとは頼んだわ」とメッセージを残して、穏やかに天国に旅立ったらしい。しかしシャネルは、もしかしたら、世界の全医療者に向けてそのメッセージを伝えたかったのかもしれない。
人と素直に向き合うこと。わかったふりは、しないこと。
人の痛みに本当に寄り添う時に、よけいな言葉はいらないということ。ケア(care/看護・介護)だけでなくキュア(cure/治療)の原点さえも、この本は教えてくれる。がん医療においては特に、「キュアからケアへ」とか、逆に、「ケアからキュアへ」なんてことを医療者たちが言い合っている。キュアが先か? ケアが先か? そんなことをテーマに、名だたる医者たちが集まって、何時間も会議をしている昨今である。
「あのう、そんなこと、どっちでもいいんじゃない? 患者さんそれぞれが、今、何を求めているかを考えればいいんじゃないの?」
シャネルの写真は、そう物語っている。
痛みの種類についてもそうだ。本書で紹介されているように、痛みには大きく分けて4種類あると医療者は勉強する。
- 身体的な痛み
- 精神的な痛み
- 社会的な痛み
- 魂の痛み
である。僕も今まで、教えられたこの順番通りに多くの書籍を書いてきた。だけど、間違っていたことに気がついた。本当は、4番の魂の痛みを、一番初めに持って来るべきなのだ。そして、魂の痛みについて「どこが痛いの?」とか「どんなふうに痛いの?」なんて患者さんに訊くこと自体があまりにも滑稽だし、それで医者が仕事をした気になっていたとしたら、何かが違う……。本書は写真集でありながら、医療者にそんなことを気付かせてくれる、新しい緩和ケアの教科書でもあろう。
* *
今までの僕は、自分が死ぬ時はどこか遠くに旅に出て、誰も知らない場所で野垂れ死にするのが理想だと考えていたし、講演会などでもそう話していた。しかし、シャネルの存在を知り、犬に側にいてほしいと思うようになった。現在は、24時間365日、在宅医療などで日々忙しくて、犬を飼う暇はないが、もう少し歳を取って余裕ができたら、飼ってみたい。シャネルと同じ、優しい瞳のゴールデンレトリバーの女の子を。
そしてその子と一緒に、ときどき町に往診に出かけるのも悪くないだろう。犬を連れて往診する、老いた在宅医がいたっていいじゃないか。これだけ大きな病院の緩和ケア病棟でできたのだから、在宅医療であってもできるはずだ。
――そんな夢想をしながら、シャネルの冥福を祈っている。ふだん「平穏死」についての本ばかり書いている僕は、彼女の最期が動物病院で注射を打たれての安楽死ではなくて、在宅で大好きなお父さんに看取られての平穏死だったという事実にも、安堵する。使命を全うし、命を燃やし尽くして、生ききって、死ぬ。それがきっと理想形である。
犬にとっても、人間にとっても。
(了)
(参考文献) 「長尾和宏の死の授業」(ブックマン社)