《0181》 関寛斎こそ、本当の「赤ひげ」 [未分類]

「赤ひげ」という言葉は、もはや死語でしょうか?
時折、患者さんの口から発せられるこの言葉に、医療を受ける側の願いが
込められているように感じます。

貧しい人からはお金を取らず、金持ちからはしっかり取った関寛斎。
昔は保険制度がなかったので貧しい人は、医者にかかれませんでした。
現在は、国民皆保険制度があるので、平等な医療はほぼ実現できています。

しかし、現代は、あまりにも細分化された医療になっています。
関寛斎は、昼夜を問わず老人も子供も診て、外科手術もしていました。
もはや現代ではあり得ない、「総合医」そのものでした。

山梨病院院長時代は、開業医を病院に集めて最新医学を教育しました。
患者を紹介する時には開業医も同伴させて、治療が終われば地域に帰しました。
現代の「地域医療連携」を、100年以上前に既に実践していました。

種痘やコレラの予防は、現在の感染症対策やインフルエンザを連想します。
養生法を重視し、自らも極寒のトマム川の氷を割っての冷水摩擦が日課でした。
これらは、現代のメタボ健診やメタボ指導を連想します。

自ら、北の大地を開拓し、いい農作物の栽培をめざしました。
これらは、栄養療法そのものです。
さらに漢方、蘭学に、養生法も取り入れたことは、統合医療を連想します。

阿波藩主蜂須賀斎裕の侍医になったり、奥羽戦争では、
奥羽出張病院長になりました。
そして72歳にして、北の大地の開拓にまで乗り出したのです。

これらから、関寛斎は、国家意識の高い人だったと想像されます。
医療人としての関寛斎の生涯を見直してみると、
貧民救済、先端医療、医療連携、予防医学、そして国家意識と、
医師に求められるすべてを行ったことに、改めて驚かされます。
「赤ひげ」という言葉は、関寛斎にこそふさわしい言葉だと思いました。