インフォームド・コンセントの理想と現実
Q. 以前、さる有名な病院で乳がんの摘出手術を受けたものです。
手術の前々日に、「これからインフォームド・コンセントを行います」と言われ、初めて見る麻酔医と外科医の立ち合いのもと、看護師さんが機関銃のように早口に書類を読み上げました。
すべてを一気に読み上げた後、「何か質問は?」と言われましたが、正直、何も頭に入って来ず、しかも医師のお二人そうもお忙しそうだったため、言われるがままにサインをして、儀式のように終わりました。
幸い手術はうまくいきましたが、術後、手術跡のケロイドなどいくつか納得できないことがあり、看護師さんに質問を投げかけましたが、「それはインフォームド・コンセントの際に申し上げましたよね?」と言われて戸惑いました。
その病院のロビーには、<当院はインフォームド・コンセントを重視した治療を行う云々~>という張り紙があって、さらに疑問がつきまといます。どこの病院に行っても、こんなものなのでしょうか? 正直、インフォームド・コンセントという制度のせいで、かえって患者が物を言いづらい空気ができているように感じます。
たいへん辛い想いをさせたことに、医療人の一人としてお詫び申し上げます。
誰のためのインフォームド・コンセントなのか、という問いかけかと受け取りました。
インフォームド・コンセントという言葉は、私が医学生の時にはありませんでした。
ただただ患者さんのための医療をせよ、と叩きこまれた記憶だけがあります。
調べると1990年代から普及し始めた概念で、海外から入ってきたもの。
今でこそ一般に知られている概念ですが、まだそれを知らない市民もたくさんおられます。
インフォームド・コンセントとは、「説明と同意」で、なにもがん医療に限りません。
医者が充分に説明を尽くしたうえで患者さんが納得されるかどうか、という趣旨でしょう。
しかし私のような町医者では、インフォームド・コンセントという言葉を使うことは
年に一度もありませんし、だいいち、そんな言葉を発する患者さんもおられないのが実情です。
承諾書にサインをもらうこともありませんし、口約束による「阿吽」しかありません。
町医者では危険なことをしないから、厳密なインフォームド・コンセントをしません。
一方、病院では、さまざまな医療を行うので、予期せぬ事態が起きる可能性があります。
病院の医師たちは、省略して「IC、IC」と呼んでいます。
ただ「IC取ったか?」という会話は私には、なんとなく免罪符のように感じます。
それさえあれば万一、訴訟になっても負けないぞ、という感覚です。
本来は納得医療のための概念が、現実には訴訟回避のための道具になっている気がします。
またご質問の中にある看護師さんの言葉は、言い訳や言い逃れのように感じてしまいます。
ご質問のような疑問や質問を、よく受けます。
いったい誰のためのインフォームド・コンセントなのか、と思っていたところです。
またインフォームド・コンセントは、パターナリズムへの反省として入ってきた概念でしょう。
パターナリズムとは早く言えば「俺について来い」というやり方だと思いますがその反省です。
しかし果たしてインフォームド・コンセントは、パターナリズムと相反する概念でしょうか?
私は両者は、患者さんが納得される医療のための車の両輪だと思っているのですが。
私はリビングウイル協会の役員を拝命していますが、毎年開催しているリビングウイル研究会では
「活かされなかったリビングウイル」というご家族の生の声、がん医療への不満が寄せられます。
人生の最終章における医療でさえ、押印までして患者さんの希望が活かされていない
現実を前にすると、いくらIC、ICと言われても、空虚に感じるのは私も同じです。
本当に必要なことは、患者さんと納得するまで「対話」することだと思っています。
分かりやすい言葉で話をすることが医療の基本であり、難しい言葉は要らないのではないか。
そう思う私は、パターナリズムに偏った悪い医師かもしれません。
本音を言えば、インフォームド・コンセントという言葉も好きではありません。
今年で開院20周年を迎えるのですが、これを機に当院で受けている医療に満足、納得
されているのか? 患者さんに一度アンケートを取ろうかと考えているところです。