がんではなく、がん治療に殺されたってどういうこと?
Q 研修医です。腫瘍内科医になりたいと思っています。
慶応大学の近藤誠さんの本を読んでいると、がんで亡くなった有名人の名前がたくさん出てきて、
「あの人はがんに殺されたのではない、がん治療によって殺されてしまった」というようなことが書いてあります。
つまり、「何も治療をしなければもっと長く生きられたはず」ということのようですが、
たとえば先の某病院での件など、外科手術で不幸にも亡くなった場合は訴訟問題になっているのに、
近藤誠さんの言うがん治療で殺された場合には、訴訟になることはないようです。
「がん治療で殺された」とハッキリ言える状況とは、どんな場合なのでしょうか?
逆に、医師が「がんを見つけられなかった」ことで訴訟になることはあるようですが……。
どこまでが許容範囲で、どこからが罪に問われるのかがわかりません。
A がん医療に殺される
この字づらだけ見れば、がん専門病院で亡くなられた患者さんの家族の
なかには、なにかしら感じるところがある人がいるかもしれません。
大切な人が懸命にがん医療を受けた先に、死が待っていたわけですから。
しかし本当にがん医療に殺されたのでしょうか?
私は、「殺された(殺される)」と感じる人の中には
- 殺された、という形容詞が似会う場合
- 決して殺されてはいないのだが、そうした〝心残り〟がある場合
の2通りがあるのではないかと思います。
前者は、そう多くはないだろうが、あることはある。
後者は、結構多く、医者の想いと患者の想いが食い違っているのではないか。
医者にしてみれば、一生懸命手を尽くしたが、残念ながらお亡くなりになった。
しかし患者にしてみれば、医者の言うままにしていたのに、最後は死んでしまった。
そうした疑問がある人の心には、慶応大学の近藤誠氏の言説がスーッと入る。
難しいことよりも、「殺されるな!」という一言に強い共感が集まるのでしょう。
しかし「がん医療=殺される=すべて放置」であるはずがありません。
早期がんや早期発見という概念が全否定されるのであれば、医者は不要です。
がんの見落とし裁判や診断の遅れ裁判などはこの世からなくなるはずです。
現実には、がんの診断の遅れがあると、医者には大きな罰が待っています。
実際にあった、50代女性の肺がんの事例を振り返ってみましょう。
そして慶応大学の近藤誠氏の言説が正しいかどうか考えてみましょう。
胸部X線検査で1センチ大の異常陰影が見落とされました。
1年後、他院にてステージⅡbの肺がんと診断され手術を受けました。
5年生存率の低下を理由に患者が損害賠償請求しました。
死への恐怖が高まったという理由が認められ病院側に約4500万円の
損害賠償請求が命じられました。
1センチの陰影を1年間放置しただけで、4500万円のペナルテイー。
これががんの診断遅れに関する医療訴訟の現実です。
もし慶応大学の近藤誠氏に弁護してもらったら逆転するのでしょうか?
もし彼の言説が正しければ、こうした裁判自体がなくなるはずです。
司法の判断と近藤氏の判断は、真逆です。
空想の中で仮説を楽しむのは自由ですが、現実社会には命を救うために医療がある。
しかしがん医療の、3分の2に待っている将来は「死」です。
そうした結末に、納得できる医療だったのかどうかが問われます。
すなわち「死」という結果ではなく、そこに至るプロセスが問われているのです。
がん医療のプロセスに満足されないと「医者に殺された」と感じれることになる。
がんという病気になると、3分の2は亡くなります。
しかし3分の1は、完治するか、がんでは死にません。
そうした現実を、医者も患者も忘れているのかもしれません。
患者側も「がん治療に殺された」と後悔しないように選択する必要がある。
医者側も後でそう言われないように充分なコミュニケーションをとる必要がある。
貴方はまだ研修医なので、輝く未来があります。
もしがん医療に従事されるのでしたら、是非とも以上のような
がん医療の変革に私と一緒に取り組みませんか?
教科書以外にも、やることが沢山あります。
PS)
第17回日本在宅医学会のため盛岡に来ています。
初めての盛岡は、天気がよくさわやかで春気分を満喫しています。
今夕の大きな会場での講演でも、今日書いたことをお話しします。
明日も同じような話をしたり、座長をしたりしています。