たとえば「胃が痛い」という自覚症状があっても、それで医療機関を
受診するまでには、人によって相当なタイムラグがあるのでしょうね。
我慢強い人や、病院嫌いの人は、胃に穴があくまで我慢されます。
配偶者に促されてシブシブ受診されるという方も少なくありません。
いずれにせよ「受診する」という行為からすべての物語が始まります。
がん患者さんとの御縁は、町医者から始まることは少なくありません。
ポイント
- 医療機関を受診されるまでの葛藤は、人それぞれ
- 人生の伴侶と一緒なら行ってもいい、という人が少なくない
- その伴侶のお陰で助かった、ということもある
- 一目見ただけで、「胃がんかな?」と分かるような胃がんもある
- しかし大腸がんではかなり進行していても顔色がいいこともある
病院嫌いの男性が、業を煮やしてクリニックにやってきた
鈴木信夫さん(58歳)が私のクリニックに初めてやってきたのは、
桜の蕾が少しだけ膨らみはじめた二月下旬のことであった。ここ数ヵ月間手放せなかったダウンジャケットでの往診だと汗ばんでしまう、
少しだけ日差しの春めいてきた午後だった。信夫さんの妻、ヨリ子さんのことはよく知っていた。ヨリ子さんには持病の喘息があって、
ときどき私のクリニックを訪れる。もう一五年以上の付き合いだろうか。たしかお子さんが一男一女。二人とももう立派に成人されて息子さんは大阪、
娘さんは東京で就職してしまったと寂しがっていた。
お子さんが熱を出したり、インフルエンザにかかるたびに私が診ていたから、家族ぐるみの付き合いと言っていい。特に娘さんにはひどいアレルギーとアトピー性皮膚炎があり、しょっちゅう診察をしていたので、
幼児の頃より大学生になるまでその成長をよく知っている。
娘さんは大人になるにつれ、アトピーの症状はほぼなくなった。
ヨリ子さんが熱心に治療や食事に気を遣った賜物だろう。しかし、夫の信夫さんには初めてお会いする。「うちの夫は病院嫌いで困ってしまう。
会社の人間ドックさえもサボろうとする」と以前にヨリ子さんがボヤいていた。
「病院好きな人なんていないですよ。特に男はね。私も実は病院が大嫌いなんです」と冗談を言ったのを覚えている。その信夫さんが、いきなり診察室に現れたので少し驚いた。ヨリ子さんに引っ張られるようにして
夫妻で椅子に座り、弱々しく私に会釈をする。緊張されている。
お顔は艶がなく青白い。会社を早退されたのだろうか、スーツ姿のままだ。たしか、神戸にある電機メーカーの営業部長をされているはずだ。
いかにもベテラン営業マン風の精悍(せいかん)とした雰囲気をお持ちだが、スーツがやけにだぶついて見える。「長尾先生、今日はうちの主人を診てほしいんです。ずっと胃が痛いって言っているんです。
先日掃除をしようと思って夫の引き出しを開けたら、たくさん市販の胃薬の箱が出てきました。びっくりしてしまって、いつから胃が痛いのって訊いたら―― 去年の秋にお前と京都旅行に行った頃からずっと痛い。
実はつらくて紅葉狩りどころじゃなかったんやって。お父さん、どうしてずっと隠してたの? 私もう腹が立って腹が立って」ヨリ子さんが早口で話し続けるあいだ、信夫さんは苦々しい表情で下を向いていた。そのお顔を覗(のぞ)き込むように拝見する。
ああ、残念ながら胃がんだ……。たった5秒でわかってしまった。
こう書くと、トンデモ医者が変なことを書いていると叩く無知な輩(やから)がいそうだが、
胃がんの人というのは、お顏を診(み)るだけでわかることがある。医者のあいだでは「胃がん顔」という言葉さえある。顏の痩せ方に特徴がある。
そしてとにかく、顔色が悪い。顏に特徴が表れるのは胃がんならではであり、たとえば大腸がんやすい臓がんは、
お顔つきからはまったくわからないことが多い。
かなり進行した大腸がんの人でも、顏の色艶がよく、恰幅のいい人はたくさんいる。
だから発見が遅れることも多い。「外見に騙された」、と同業者は言う。
どれくらい進行しているのかな。転移がなければいいが――。
【「抗がん剤 10のやめどき」(ブックマン社)からの転載】※ 読みやすくするための改行など、アピタル編集部で一部手を加えています