《1849》 抗がん剤治療の第一目的とは? [未分類]

この3日間、深夜対応が続いてあまり眠る時間がなく
ボーっとした頭で書いています。

昨夜も2件のお看取りがありました。
その後、ステージIVのがん患者さんの、抗がん剤に関する相談にのりました。

もうガリガリに痩せて食事もできず、歩くこともままらない50代男性。
タクシーで通院する病院からは、相変わらず抗がん剤が処方されています。

「もう食事ができないので、抗がん剤が飲めないのですが……」
「じゃあ、止めませんか?」
「先生、止めたら死ぬじゃないですか?」
「いや無理やり続けたら、それこそ副作用で死にますよ!」
「じゃあ、がんの専門医はなぜ抗がん剤を処方するのですか?
 がんを治すためじゃないんですか?」
「……」

そんな、とりとめのない問答を続ける日々です。
その方は免疫療法にも通っておられ、そこでも抗がん剤を処方されています。

現実には、たいへんなことが起きています。(と私には思えます)
しかし、冷静に時間をかけて物語に寄り添います。

【今日のポイント】

  • 抗がん剤は、がんを治す薬ではない
  • 再発転移を予防するか、再発したがんを延命させるかである
  • 分子標的薬の副作用は、従来の抗がん剤より少ないが、それでもある
  • ステージや年齢によっては、抗がん剤をやらないほうがいい場合もある

抗がん剤治療の第一目的とは?

 死ぬまで打ち続ける医師もぎょうさん(=関西の方言で「たくさん」)いますよ。本当ならそう申し上げたいところだ。だが今ここで、それを鈴木さんに申し上げて何になるのだ、と自問自答をする。鈴木さんのような進行胃がんに、抗がん剤が効くかどうかは、予防的投与のときは特にわかりにくい。

 がんの再発、進行、転移をどこまで食い止められるか、どこまで時間を引き延ばせるかということが抗がん剤治療の第一目的である。だから“やめどき”が必ずや訪れる。けっして完治が目的ではない。そこで患者さん本人と医療者との温度差が生まれる。

 患者さんは、抗がん剤治療を受ければ治るはずだとつい思いがちだ。治るのであれば、つらい副作用も甘んじて受け入れようと。私はこの「抗がん剤(anti-cancer drug)」という名前が患者さんに間違ったイメージを与えているのではないかと思う。

 がんに抗う、すなわちがんを退治してくれるように誰もが思うだろう。“抗がん剤”というネーミングをした人間は商売が上手かった。しかし、少し罪はある。もし、通常の細胞までも殺す薬=「殺全身細胞薬」とネーミングされていたとしたらどうだったか? 少なくとも、死ぬまでこの治療を受けたいと考える患者さんは減っていただろう。

 ならば、抗がん剤治療がいつまで続くのか? その答えは医師によってさまざまだろうが、一番正解に近い答えは、「患者さんご自身の気力、体力と相談しながら」であろう。

 抗がん剤は細胞を殺す薬である。がん細胞を叩くと同時に正常で元気な細胞も叩くから(昨今多用されるようになった分子標的薬は、がん細胞だけを見分けて狙い撃ちができるが、そうとも言い切れない副作用がある)、患者さんの生命力を内側から奪っていく。

 つまり体力との勝負なのだ。副作用が続き、他の抗がん剤に切り替える体力も奪われてしまい、たった1~2カ月で治療が限界となるケースもあれば、数年間続けられる人もいる。

 抗がん剤の世界は日進月歩なので、治療をしている最中に新たな抗がん剤を勧められる場合もあるだろう。しかし、「もっと効果的な抗がん剤が承認されたから」といって誰もがそれに飛び付くべきか、といえばそれもまた違う。

 “抗がん剤のやめどき”は大きな個人差がある。だから、最新の抗がん剤治療に無理をして足並みを揃える必要はないのだ。新しい薬だからやってみようという考えももちろん大切だが、しかしあくまでも、患者さんご本人にとって本当に救いになるかどうかを第一義に考えねばならない。

抗がん剤治療と年齢の問題

 また、75歳以上の後期高齢者には積極的な抗がん剤治療をしてほしくはないと思う。三浦雄一郎さんのように齢(よわい)八十を過ぎてもエベレストに登頂できるスーパー老人は別として、言わずもがな体力が著しく低下していく年代だから。

 後期高齢者になってからがんが発見されたのなら、どんながんであっても、治療もせずに定期的に様子を見ていくという方法は充分、説得力がある。若い人に比べ、がんの進行も概ね遅い。長くゆっくりがんと付き合い、老衰が原因なのか、がんが原因なのかわからないまま「平穏死」されたお年寄りを、私は在宅や施設でたくさん看取ってきた。

 名随筆家の故・江國(えくに)滋(しげる)氏が食道がんを告知され、その後の壮絶な闘病記(句集でもある)に『おい癌め酌みかはさうぜ秋の酒』というタイトルをつけられた(このタイトルが辞世の句であったらしい)。あのタイトルこそ、がんと向き合う心境の極致であると私は思う。

 がんは、己の中にいる。ジャーナリストの立花隆さんも、ご自身が前立腺がんになられたことから企画した『NHKスペシャル』の中で、「がんの正体は、半分自分で半分エイリアン」と語っておられた。さすが立花隆さんだ。己自身と勝負を挑むことには、どこかで限界が来るのだ。

 しかし、鈴木さんはまだ還暦手前。お若い。私は、がん治療には闘うべき年齢と、闘わずに向き合うべき年齢が存在すると思っている。ただそれは、簡単に線引きができる話ではない。それぞれの人生が背負っているものをまず考慮する必要があるだろう。

 史上かつてないほど人間の栄養状態が良く、しかも誰もが高度医療を受けられるようになり、百歳を超える人を見かけるのも珍しくなくなった現在の我が国において、年齢と若さの関係というのは、百年前の世代の“七掛け”くらいなんじゃないかと考えている。

 我が国で死亡年齢の統計が取られるようになったのは、(初めて戸籍が作られてから5年後の)明治9年だという。それによると明治半ばから大正にかけての平均寿命は男性42歳、女性44歳。男女とも平均寿命が50歳代を超えたのはなんと昭和22年から。
そして70歳を超えたのは、高度成長期に突入した昭和46年から。この高齢化の加速度ときたら驚くばかりだ。

 そんな現代だから50代、60代はまだまだ年寄りではないし、いや、70代でもがんになったならどんな医師だって積極的に手術と抗がん剤治療を勧めてくるはずだ。完治はしなくとも、がんの進行具合が一定のあいだ緩んでくれれば医師はそれを「抗がん剤が効いている」とみなす。その期間がたとえわずか1カ月であっても、だ。


【「抗がん剤 10のやめどき」(ブックマン社)からの転載】

 アピタル編集部で一部手を加えています