お腹のがんの再発様式のひとつに、腹膜再発があります。
お腹を開けたら米粒のような小さながんの塊が
あちこちに散らばっている状態を指す言葉です。
まるで種をまいたように見えるので、腹膜播種とも言います。
抗がん剤治療をしていてもこうした状態に追い込まれることがある。
腸管のあちこちに癒着ができて、腸閉塞に近い状態になります。
たくさんは食べられないので、だんだん痩せてきます。
しかしここで高カロリー輸液をすると、がんが栄養をひとり占めして
がんだけが急速に大きくなり、反対に体重が激減することがあります。
また大量の輸液をすると、腸管の浮腫が改善せずに、腸閉塞の準備状態
から本物の腸閉塞に移行して、ゲボゲボと嘔吐することがあります。
しかしそんな状態でも、抗がん剤医療を受けている人がいます。
本来、食べられない状態では、抗がん剤治療を行うべきではないのですが。
そもそも、腹膜再発を本人にどう伝えるのかという議論もあります。
医者が言ってもいいと思っても、家族が烈火のごとくに怒る場合があります。
【本日のポイント】
- 再発予防のための抗がん剤治療をしていても再発が防げない場合がある
- 「再発の告知=死の宣告」ではない
- しかし本人には言わないで欲しい、と願う家族が少なくない
- このような状態での抗がん剤治療継続に関して、さまざまな議論がある
再発――腹膜播種
鈴木信夫さんに異変があったのは、TS-1とシスプラチンの併用療法、2コース目が終了した、2月の半ばになった頃だった。体重は現状維持。体温もかろうじて平熱。この寒さに自転車通院はいけません、とヨリ子さんにきつく言われて、タクシーでやってきた。
「先生、3~4日前くらいからやろか。腹に違和感があります。今までと、少し痛みが違うんですよ。気のせいやろか。腹が張る。これも副作用からやろか」
ゆっくりと、信夫さんの下腹部あたりを丁寧に触らせていただく。硬い。この独特の腹部の張り……私は唇を噛んだ。腹膜播種。再発したか。しかし今、言うべきことではないだろう。数カ月前、鈴木さんが一番恐ろしい言葉は何か、伺ったのだ。
――鈴木さん、熱が高いな。40度近くありそうや。解熱剤を出します。熱が下がったら明日にでもすぐにAがんセンターに行ってください。主治医には、すぐに診て頂けるよう連絡をしておきますから。
息も絶え絶えに、鈴木さんが私に訊く。
「せ、せんせい、これはなんでしょう、か」
――どうやろ、明日、Aがんセンターで診断が下ると思うけれども。急性の胃潰瘍かもしれないな。
言えなかった。
鈴木さんの胃がん手術から10カ月が経過していた。その翌日、鈴木さんはAがんセンターで腹部CT検査を行い、その晩には結果が私のところに送られてきた。
再発した。腹膜播種。
胃がんが再発する場合、その3分の2が腹膜播種というかたちをとる。がん細胞が胃の壁を突き抜けて、腹腔内に付着してばら撒かれていく状態を言う。文字通り、まるで植物の種が腹膜に播かれるように。
憂慮されるのは、ここにできた再発は一つの塊ではなくて、小さながん細胞が散らばっているために、外科的な手術はほぼ望めないということである。放射線治療という選択肢もない。
TS-1のとシスプラチンとの併用になって2コース、比較的穏やかに過ごせたこの数カ月を嘲笑うかのように、再発の影が見えた。がん細胞は、いた。手術をした後も、抗がん剤治療を続けていたときも、いた。ただ、今まで息をひそめていた。
抗がん剤である程度のダメージを受けていたはずである。しかし、まるで春先に木が芽吹くようにして、息をひそめていたがん細胞は、信夫さんのお腹の中で、突然自己主張を始めた。残念ながら運が悪い――ため息しか出なかった。
翌朝、鈴木さんはAがんセンターに駆け込んだ。ようやく私が午前の診療を終えた頃、ヨリ子さんから私の携帯に電話があった。
「先生、主人はしばらく入院となりました」
――そうですか。
「この10カ月は、主人にとってなんだったのでしょう? 私は、“がん患者のための食事”“がんが消えていく食事”というレシピ本を山のように読んで実践しておりました。一日の半分は台所にいたんよ。手作りの青汁も、無農薬野菜で作ったマクロビ食も無意味だったということですか。もう、疲れました」
――まるでご主人が死んでしもうたような言い方やな。たしかにご主人は再発をした。だからって明日、明後日に亡くなるんですか? 違うでしょう。ここからまだまだ信夫さんは、生きられます。まだまだ生きる人に対して、ヨリ子さんが今までしてきたことが無意味なんてこと、あらへん。意味はちゃんと、ある。
「そうなんやろか。そうよね……主人はまだまだ生きてくれますよね。再発なんて、いくらでもあるのでしょう?
だけど、先生。お願いがあるのです。主人には、“再発”とは伝えておりません。主人には再発ということを言わないでいただけますか。ちょっと副作用が酷くなったということで辻褄を合わせてほしいんです。Aがんセンターの主治医さんにも、そうお伝えしたところです」
――ヨリ子さん、それは、すぐにバレるんじゃないかな。
「どうしてそう思いますの?」
――患者さんというのは、誰よりも自分の身体の変化に敏感なものです。まして、信夫さんはヨリ子さんの顔色も瞬時に見るような繊細な人です。変な形でばれるよりも、最初からハッキリ伝えたほうが、信夫さんのためじゃないでしょうか。今までだって、冷静に闘ってきたご主人のことです。あなたが考えているよりも、御主人は強い人だと私は思いますが。
「そんなこと言われたって。先生、これ以上私を責めないで。今晩、娘が東京から帰ってきますから、そこで相談します」
プツッと電話はそこで切れてしまった。
そう、何もめずらしい話ではない。がん告知を本人に行うことが当たり前になってもう久しいが、再発したことを伝えないでほしいと申し出てくるご家族は意外に多い。
たしかに、最初のがん告知と再発の告知は、まったく違う問題だ。それまで懸命に闘ってきた人の希望を奪っていくのはたしかだ。だけど、もしもどこかの場面で再発したことを鈴木さんが知ってしまったら? 夫妻のあいだに溝が入ることはないか? 鈴木さんは絶望の淵を彷徨(さまよ)うことにはならないか?
しかし家族がそう望んでいるかぎり副主治医の私がそれ以上抵抗すべくも、ないのだ。
【「抗がん剤 10のやめどき」(ブックマン社)からの転載】※ アピタル編集部で一部手を加えています