《1863》 町医者はタオルを投げ入れられない [未分類]

抗がん剤治療の進歩と相まって、死ぬ直前まで抗がん剤をやっています。
寝たきりで、意識朦朧状態になってもストレッチャーで運んでやります。

本人の意思の場合もありますが、家族の意思であることが大半です。
さすがに「もうやめたほうがいいのでは」と思っても絶対に口に出せません。

一方、家族から私に「もう抗がん剤をやめてくれ」と主治医に言ってほしいと
頼まれることもあります。

どういうことかというと、それまでさんざんお世話になったがん専門医に今さら
「もうやめてくれ」なんて都合のいい事は、家族からはとても言えないからだと。

だから長尾先生から病院の主治医に言ってほしい、なんて頼まれることが多い。
しかし、私はそんなことを直接言う勇気はありません。

やめどきの意思表示は、患者さん本人と家族で行うべきです。
ボクシングのリングサイドからのタオルとは事情が違うのです。

「やめる」という言葉が死をイメージするなど、嫌ならば
「休む」でもいいのではないか、とアドバイスは致します。

【本日のポイント】

  • 家族から主治医に「抗がん剤をやめて」とは言いにくい
  • さりとて、町医者が病院の専門医にそれを頼むのも難しい
  • 「やめる」に抵抗あるならば、「休む」に置き換えることもいい

 

「もう抗がん剤はやめてくれ」と長尾先生から言ってもらえませんか

 それから5日後。鈴木信夫さんの容態は落ち着かれ、Aがんセンターから退院された。その翌日、私のクリニックへ来た。お嬢さんは既に東京に戻ったという。落ちくぼんだ目からやけに黒い瞳が光を放ち、ギラギラとしていた。何かを悟ったかのような眼の色だった。

「落ち着いたら、セカンドラインとシスプラチンの3コース目を始めましょうと、退院間際にAがんセンターの医師に言われました。長尾先生にお願いがあるのです。もう抗がん剤治療はやめてくれ、と言ってはいただけませんか」

―― それはできない。ごめんなさい。

「どうしてです?」

―― 残念ながら、私は今、あなたの主治医ではない。副主治医です。私がAがんセンターの治療方針に直接口を挟む権利はないのです。

「なんでも相談にのってくれ、と言ったのは長尾先生のほうでしょう。どうしても、ですか。私がこんなに長尾先生を頼って、やめたいと言っているのに」

 黒い瞳がさらに暗い闇のような色となり次第に怒りに満ちていったのがわかった。

――鈴木さん、お気持ちはわかります。わかりすぎるほどです。

 先週、あなたのお嬢さんにも怒られましたよ、と腹の中で呟いてみる。

「お気持ちはわかる、ですと? 私のどんな気持ちが先生にわかるというんです?

実は言わないでおいたことがありました。私は、近藤誠さんの本を読んでいるんです。彼の本には、抗がん剤は百害あって一利なしとある。延命効果のエビデンスがない、まやかしの薬がほとんどだと。いや、抗がん剤は薬ですらない。看護師が分厚いビニール手袋とマスクをしないと扱えない猛毒であると。

先生はこの前はうまくごまかしたが、本当は抗がん剤治療否定論者でしょう?

それなのに、一言も止めてはくれなかったではないか。もっと早く近藤誠さんの本を読んでいたなら、私、抗がん剤治療なんて、いや、手術だってしませんでした。放置療法でいっていたかもしれない。そう知ったときの私の苦しみが、私の怒りが、先生におわかりになりますか」

――鈴木さん。それは違う。もしも私があなたの胃がんを見つけたとき、近藤氏のように、「何もせずに放っておきなさい」と言ったとしたら、あなたは多分、今ここにはいませんよ。この世に存在していないかもしれません。

「そんなことはない。少なくともこの苦しみはなかった。この副作用のつらさは」

――そうかもしれない。だけど、もしも近藤式に放置療法という名で何もしないでいたら、あなたはもっと後悔したはずです。

「なぜですか」

――がんと闘わなかったことに、後悔したはずです。そして近藤氏の理論に対しては、私は、少しは賛成できるところも、ある。だがしかし彼は言い過ぎだ。極論も極論です。“何もするな”ということが、どれだけ患者さんから選択肢を奪うことになっているか、彼はわかっていないように思いますがね。

私はリングにタオルを投げられない

 ああ、患者さんと近藤誠理論に対してこうしたやりとりを行うのは、これで何度目だろうか。ついしかめ面になってしまう。

 人は可能な限り、生きるために努力するべきである。たとえ宝くじレベルの場合であっても、抗がん剤治療を受けることは生きるための選択肢でもある。延命効果があることはもちろん、長期間回復する人だっているのだから。

 ただし――やめどきが、あるのだ。大切なのは“やらない”ではなくて“やめどき”を見極めることなのだ。

 がん患者さんをボクサーに喩えるなら、町医者である私の立場は、そのセコンドであるとよく患者さんに申し上げている。しかし、本物のボクシングのルールと決定的に違うことがある。

 何が違うか?

 本物のボクシングのセコンドは、自分の選手の“負け”がリングで明らかになったとき、これ以上相手のパンチを受けたら死んでしまうのではないかと判断したとき、タオルをリングの真ん中に向かって投げることができるのだ。

 タオルを投げる――ここでもうやめ。即座にレフェリーは試合を中止にするだろう。

 しかし私は副主治医なのでタオルを投げられないのだ。

――鈴木さん。どうですか。副作用がつらければ、また抗がん剤治療を休んでみる、という手はありますよ。何度もしつこいようですが。

「それでがんがいきなり暴れ出すことは?」

――ありません。場合によっては、体もいつもの休薬時間よりもちょっと長く休めるから、少し免疫機能が上がる場合だってあります。前もそうだったでしょう? もちろん、あなたの意思で、です。

鈴木さんは、株はやらへんの? 株の世界でも“休むも相場”っていう言葉があるくらいだから。いっそ仕事も休んで、旅行に出かけてみたら? きっとあと2~3日で副作用も抜けて、相当に体力が戻ってくるはず。

「そう、ですね。旅行か。私のようながん患者でも旅行ができますか」

――これも治療の一環と考えればいいのです。

「わかりました。もう一度、行きたい山があったんです。滋賀の米原にある伊吹山に」

――ああ、東海道新幹線から見える山のこと? 関ケ原のあたりだったか……。

「そうです。私と妻の初めての登山デートが、実はあの山だったんです。雪が積もっているなら、麓までしか行けないかもしれないが」

――素敵じゃないですか。僕は行ったことないけれど、あれ、そういえば鈴木さんのお嬢さんの名前って……。

「そう、伊吹っていいます。あの山の名前から取ったんですよ。先生、ウチの娘の名前を覚えていてくれたんですか。いやあ、嬉しいな」

――伊吹さん。日本女性らしい、いいお名前です。

つい先日、私の前で真っ赤になって泣いていた彼女の泣き顔を思い出す。


【「抗がん剤 10のやめどき」(ブックマン社)からの転載】

 アピタル編集部で一部手を加えています