《0189》 認知症終末期における尊厳死 [未分類]

今回は、認知症終末期における尊厳死について考えてみましょう。
認知症は自らの意思表示ができなくなるのが特徴。
その場合、ご家族が代わって医療に関する意思決定をします。

しかし最近では、天涯孤独な独居の認知症患者さんが増えてきました。
その場合は、後見人を作らなくてはいけません。

認知症終末期には、やはり、食べられなくなるのが、一番切実な問題。
あるいは食べれてても、誤嚥性肺炎を繰り返すのです。
ですから、「胃ろうにして食べさせない」ようにする傾向があります。

現在、日本の胃ろう人口は、約40万人。
中核都市である尼崎市の人口にも匹敵する胃ろう人口です。
昔はゼロでしたから、ゾッとする数字です。

もちろん、胃ろうすべてが、認知症終末期ではありません。
先天性食道閉鎖症の子供さんや、食道の手術で口から食べられなくなった
患者さんの胃ろうもあります。

それらは、「QOLを保ちながら生きる」ための胃ろうです。
「生きるための胃ろう」と、「単に延命のための胃ろう」は、厳密に
区別するのは難しいかもしれません。
しかし、一応区別できることに、してください。

私は、その胃ろうを選択しないことが、認知症終末期における
尊厳死だと考えます。
良い悪いではなく、自分の中で、そう区別しています。

胃ろうを入れない場合、口から頑張って食べてもらいます。
誤嚥性肺炎を起こせば、抗生剤で治療します。
しかし、また誤嚥性肺炎を起こします。
それでいいのです。

「人間は誤嚥しながら生きるもの」と、訳の分からない説明を繰り返して、
食べてもらいます。

実際、胃ろうを入れて在宅に帰ってきた認知症終末期の患者さんの多くは、
在宅では口からしっかり食べています。
「なーんだ、食べれるじゃん」。
何度呟いた言葉でしょう。

慢性心不全終末期や肝硬変終末期における対症療法と同じスタンスで
臨みますが、当然やがて、限界が来ます。
どんなに途中経過がよくても、いつかは限界が来ます。

点滴に関しても、老衰の方と大体同じようにします。
点滴しても200㎖です。
「餓死させた」と、ご家族が親戚に責められないためにすることもあります。

しかし、本当にいよいよ死期が近づけば、ご家族は欲が出るのか、
「もっと沢山点滴をしてください」や、「朝と夕に点滴をしてください」と、
言われる場合もあります。

「それなら胃ろうを入れますか?」と聞き返すと、
「胃ろうは延命治療なので拒否します」と答えられます。
時に禅問答のような議論になります。

どこからが延命治療というものかハッキリした線引きはないと思います。
在宅医によってその基準は当然、多少違うでしょう。

私の場合は、「点滴を200㎖以上することはできません」とお断りして、
入院医療を勧めます。
しかし、実際に入院された方は、ごく少数です。

ご家族の要望が、多少論理的におかしくても、また時と場合により、
言われることが180度変わっても、その「ゆらぎ」に寄り添うことが、
「在宅医療」だと考えます。

そして、寄り添いながら、全くの自然ではないにせよ、できるだけ
自然に近い形の最期を迎えることが、この場合の「尊厳死」だと考えます。