《0236》 天国からの投書 [未分類]

今日は、往診、診察、よろず相談を終えてから、富山型デイサービスで有名な
NPO法人にぎやかの阪井由佳子さんをお呼びして 講演会を開催します。

演題は、ズバリ「死ぬまで面倒みます」。
私も前座で講演して、デイスカッションします。
これからのテーマは「施設での看取り」です。
在宅看取りに比べて施設看取りはまだまだです。

そんな中、知り合いから届いた「天国からの投書」。
少し長いですが、じっくり読んでください。
実話です。

老婆は私の身内でした。
市内の特別養護老人ホームに入所していましたが、ある日曜日、衰弱から呼吸が止まり、施設から救急車で病院に運ばれました。
最初の病院には満床で断られ、2番目の病院では死亡診断を断られ、結局、検死になりました。

当時、理不尽さから、随分憤って、この文章を書きましたが、身内のことも考えて、公開することなく置いてありました。

でも、この「施設での看取り」、これからの高齢者のケアを考える時に、避けて通れない、非常に大切な問題ではないかと思っています。
このような点から、社会を変えていかないと、この国は、本当に、立ち行かなくなるのではないのでしょうか。
あえて皆様に御一読いただきたく、長文ながら、公開させていただきます。

「天国からの投書」~私は人生の最期でなにか悪いことをしましたか?~

私は、80歳も後半になった老婆です。
もう半世紀も前に今は亡き主人と結婚し、この町で暮らし始めました。
主人は大阪の会社に勤めていました。
真面目な人で私たちは一緒に努力して生活を築きました。
幸い3人の子供たちにも恵まれ、それぞれ家庭も持ち、親の務めは果たせたと思っています。
4年ほど前に主人に先立たれ、独りになりました。

子供たちもそれぞれ気には掛けてくれますが、皆それぞれの家庭がありますからあまり無理も言えませんし、私もできるだけ独りで生活しようと思っていました。
でも80歳を越えたくらいから、足腰が弱って車椅子の生活になってしまいました。
日常の生活すべてが独りではできなくなって、結局自分で決めて市内の特別養護老人ホームに移ることにしました。

実は主人もこの特別養護老人ホームに入居していたんです。

主人はこのホームで亡くなりました。
それで私もこのホームでお世話になろうと思って自分から入所を申し込みました。
特別養護老人ホームは、高齢者にとって「終の棲家」と謳われ、比較的低料金で入所できることから入所希望者も多く、随分長い間待たされましたが、幸いにも入所させてもらうことができました。
これで、私も主人のようにここでお世話になって最期を迎えたいと思っています。

このホームにお世話になってもう3年にもなります。
よくお世話をしてもらっていますが、次第に体も弱り、食事の量も減ってきました。
特に今年に入ってから食事が細り、体も弱ってしまいました。
でもそれはそれで仕方のないことだと自分では思っています。
思えば、80歳もはるかに越えて、自分でもこんなに長生きできるなんて思っていませんでした。
次第に弱る体も仕方のないことと思い、自分では静かにこのホームで息を引き取ろうと思っていました。

3月のまだ寒い日曜日の朝、とりわけ衰弱がひどく、自分でも意識が朦朧として、このまま今日ここで息を引き取るのかと、そんな予感を感じました。
ホームのスタッフの方が、呼びかけに答えない私に気づかれたようで、息子たちに連絡するとともに、救急車を呼ぶことになったようです。
ちょうど日曜日でホームの嘱託の医師と連絡が取りにくかったのかもしれません。

ここは高齢者の終の棲家であるべき「特別養護老人ホーム」のはずなんですが、今日の対応を見ていると、私の最期をここで見守ろうという対応ではなくて、救急車を呼ぶことを全くためらうことなく、そうするのが当たり前のように救急車を呼んでくれました。
私は近くの救急病院に連れて行かれ、レントゲンやCTという検査を受けることになりました。
私は老衰しているだけなのに、そしてそれは今さら点滴をしても少し先送りするだけで、私は決して若返ることはないのに、そんなことは皆が分かりきっていることなのに。
私はいくつかの検査を受けて点滴もしてもらい、おかげで少し元気になって2週間ほど入院して、またホームに戻ることになりました。

それからまたホームでの生活が続きましたが、やはり老衰は進み、体の衰弱の隠しようはありません。
6月のある日の朝、やはり日曜日でした。
私はいよいよ呼吸が少なくなりました。
前回のこともありますし、今度こそお迎えが来たのだと、私は静かにその時を待つつもりでした。
ホームのスタッフは、そんな呼吸の弱くなった私を見つけ、家族に連絡してくれたようです。
家族がどう答えたのか、まだ若いあの子たちのことだから、私がこんな状態になっていても、まだ「できるだけのことをして下さい。」と告げたのかもしれません。
その辺りのいきさつは、私には分かりません。
結果として、再び救急車に載せられて救急病院に向かうことになりました。

こんなもう誰が見ても余命いくばくもない老衰の老婆を、若い救急隊の皆さんが日曜日の朝に電話一本で駆けつけてくださり、救急病院へ運ぼうとしてくださるのです。
これも税金かと思うと、なにか申し訳なくて……。
でも救急隊が最初に連絡してくれた救急病院は、私が前回入院させていただいた病院でしたが、この日は満床で受け入れてはくれませんでした。
救急隊の皆さんは、一生懸命に受け入れ先を探してくださり、私は2番目の病院に運ばれることになりました。

2番目の病院に着いた頃には、もう私の息は止まっていました。
私は、やっと往生を遂げたのです。
後は私が臨終を迎えているという「死亡診断書」を書いていただければ、葬儀を済ますことができて、主人の待つ天国に行くことができるのです。
でも2番目に運ばれた病院の当直の先生は、今まで診察したことのない人が、突然、救急車で運ばれてきたわけですから、「不審死」の可能性があるというのです!!
もう息が止まっている私の死亡診断書は書けない!!と断られたんです。
でもこれは初めて受診した病院であったからというわけではなく、たとえ1番目の病院であっても、病院到着時に私が既に死亡していたら、不審死の疑いがあるという可能性は残ったことでしょう。

それで結局、私は、知らない病院の一室で、警察の人が来るのを待つことになりました。
警察ですよ!今まで、人生80年あまり。
一度も警察のお世話になんかなることはありませんでした。
その私が人生の最期の最期で、どうして警察のお世話になることになるのでしょうか?
私は何か悪いことをしたのでしょうか?
警察は私の子供たちから2時間もかけて事情聴取して、ようやく聴取を終えました。
さらに搬送先の病院の医師が死亡診断書を書けないと言われるものですから、警察からの連絡で監察医の先生が病院まで来られることになりました。
こうして私は不審死ではなくて、老衰死であることを認めていただき、私はなんとか臨終を迎えることになりました。

救急車も警察も監察医も搬送先の病院での処置も、これみなすべて税金ですよ。
医療費には計上されない、どの勘定項目にも計上されない、しかし貴重なそして多額の税金を費やすことになってしまったのですよ。
医療費には計上されないでしょうから、偉い政治家の人たちは、高齢者の臨終の陰に、このような経費が利用されていることはご存じないことと思います。
私のような老婆が老衰し、赤子が見ても臨終間近とわかるのに、どうしてこんなに大騒ぎになって、人様の税金を使うことになり、結局として安らかな臨終を妨げてくれたのか。
私は、人生の最期で何か悪いことをしましたか?

思えば、終の棲家と謳う特別養護老人ホームのスタッフが、私の状態を家族によく説明してくれていれば、そして私の臨終をしっかりと受け止めてくれていれば、私は人生の最期でこんな旅をしなくてもよかったと思います。
よしんば最後の最後でも積極的な医療をしてと家族が望んだとしても、私は臨終を免れることはできないばかりか、今回のように、死亡診断書も書いてもらえず不審死扱いとなる可能性があることまで、ホームのスタッフは告げるべきではなかったのでしょうか?
死亡診断書が書いてもらえずに、死体検案書になると知らされていたら、家族も病院へ運んでくれとは言わなかったと思います。
特別養護老人ホームの説明不足と指摘できるのではないでしょうか?
この問題、これから社会全体でしっかり受け止めて考えなければならない問題ではないかと思い、私の経験をお話しいたします。

皆さん、よく考えてみてください。
結果として、長い間お世話になった特別養護老人ホームの対応に不満を申し上げることになりました。
現行の制度である限り、特別養護老人ホームとしては現在の対応をせざるを得ないのかもしれません、ホームばかりを責めるわけには無論いけません。
それでは今の制度の何が悪いのか?
どこに問題があるのか、皆さんでよく考えてみてください。
私の安らかな臨終を奪ったのは何なのか?現在の制度の不備、矛盾がある限り、今回私の身に起こった出来事が繰り返されることは間違いありません。
かけがえのない人生を精一杯生きてきて、このような形で臨終を迎えざるを得ないなんて、貴方には耐えられますか?

平成20年1月1日付の朝日新聞に、「大往生みとりの場は?」という記事が載りました。
現代の救急医療が抱える問題の一つに、「看取り搬送」があることを報告しています。
かつてなら自宅などで大往生として看取られた患者が死の間際、救急病院に次々と運ばれる事態に医師は苦悩する、とあります。
記事によれば、2004年から2006年までの3年間に、市内の特別養護老人ホームなど高齢者施設112カ所から救急搬送された高齢者のうち、すでに心肺停止状態にあった患者304人を分析したところ、搬送前の状態に回復した患者はゼロ。
すなわち、昔であれば自宅で安らかなとまでは言わないでも往生を遂げていたはずの患者が、息を引き取った後、看取りのためだけに救急車を利用する。

こんな事態が続けば、ただでさえも疲弊の伝えられる救急医療の疲弊が増すばかりであろう。
救急車の利用がタダであるのは、日本だけと聞く。
有料化を進めるとともに、終の棲家と謳う、「特別養護老人ホームでの看取り」を進めることではないだろうか?
日本人の現在の年間死亡者数は100万と聞きます。今後、日本人の年間死亡数は150万人にまで増えると予想されます。
このような、看取り搬送の救急隊への負担は、早急に回避しなければいけないと思います。
救急隊の疲弊を守るためにも、限りある医療経済の視点からも、そして何より高齢者自身の尊厳のために。