私は、当時、阪神間のある公立病院の勤務医でした。
内科医長。
それは卒後10年もすれば、誰でももらえる「位」でした。
当時、過重労働に喘いでいました。
今考えても、本当に良く働きました。
働きすぎて家庭が疎かになっていました。
そんな勤務医が、2時間歩いて病院に到着して
自分の机がある、医局の大部屋に入ろうとしました。
しかし、倒れた本棚がブロックして扉が開きません。
結局、白衣も着ずに、そのまま外来に走りました。
すでに大勢の医者たちが救命活動をしていました。
見知らぬボランテイア医者がすでに何人かいました。
続々と入って来る人は、みんな血を流していました。
傷が開いて、縫合が必要な人たち。
患者と医者が、1:1で対応していました。
こんな時、1年間ミッチリやった外科研修が役立ちました。
しかし、傷を負った人が、いくらでも運ばれてきます。
ドアに載せられた重症とおぼしき人も続々と、到着。
どこから手をつければいいのか、何を優先すればいいのか。
看護師さんが、どこからともなくガーゼ等を運んでくれます。
傷の手当てをしていたら、横にもっと重症のひとがいました。
そう思うと、横に心臓マッサージをしている医者もいました。
さらに、横を見ると、開胸心マッサージが行われていました。
病院の入り口で「生の心臓」を見て、「正夢?」かと思いました。
患者さんの顔を覗くと、まだ若い美しい女性でした・・・
すでに死んだひとも、沢山運び込まれました。
無我夢中でいろんな処置にあたりました。
病棟を覗くと「元気な入院患者には帰ってもらった」とのこと。
空いたベッドは、すぐに負傷者で満杯になりました。
廊下には、入りきれない沢山の負傷者が横たわっていました。
病院内のいたるところが、まさに野戦病院状態でした。
処置をしようとすると「重症者から」と遠慮された方もいました。
廊下に座って、吐血している負傷者の胃洗浄をしました。
こんなことをするのは初めてです。
普段は絶対にしないこと、ばかりでした。
もちろんカルテなんてありません。
自分が目の前で、処置しているひとの名前も分かりません。
一応、病院ですから、何か記録が必要です。
手帳を破り、名前、年齢、病状、日時、
処置の内容を書き、枕元に置きました。
これが「応急カルテ」でした。(続く)