《0267》 野戦病院化した病院 [未分類]

私は、当時、阪神間のある公立病院の勤務医でした。

内科医長。

それは卒後10年もすれば、誰でももらえる「位」でした。

 

当時、過重労働に喘いでいました。

今考えても、本当に良く働きました。

働きすぎて家庭が疎かになっていました。

 

そんな勤務医が、2時間歩いて病院に到着して

自分の机がある、医局の大部屋に入ろうとしました。

しかし、倒れた本棚がブロックして扉が開きません。

 

結局、白衣も着ずに、そのまま外来に走りました。

 

すでに大勢の医者たちが救命活動をしていました。

見知らぬボランテイア医者がすでに何人かいました。

続々と入って来る人は、みんな血を流していました。

 

傷が開いて、縫合が必要な人たち。

患者と医者が、1:1で対応していました。

こんな時、1年間ミッチリやった外科研修が役立ちました。

 

しかし、傷を負った人が、いくらでも運ばれてきます。

ドアに載せられた重症とおぼしき人も続々と、到着。

どこから手をつければいいのか、何を優先すればいいのか。

 

看護師さんが、どこからともなくガーゼ等を運んでくれます。

傷の手当てをしていたら、横にもっと重症のひとがいました。

そう思うと、横に心臓マッサージをしている医者もいました。

 

さらに、横を見ると、開胸心マッサージが行われていました。

病院の入り口で「生の心臓」を見て、「正夢?」かと思いました。

患者さんの顔を覗くと、まだ若い美しい女性でした・・・

 

すでに死んだひとも、沢山運び込まれました。

 

無我夢中でいろんな処置にあたりました。

病棟を覗くと「元気な入院患者には帰ってもらった」とのこと。

空いたベッドは、すぐに負傷者で満杯になりました。

 

廊下には、入りきれない沢山の負傷者が横たわっていました。

病院内のいたるところが、まさに野戦病院状態でした。

処置をしようとすると「重症者から」と遠慮された方もいました。

 

廊下に座って、吐血している負傷者の胃洗浄をしました。

こんなことをするのは初めてです。

普段は絶対にしないこと、ばかりでした。

 

もちろんカルテなんてありません。

自分が目の前で、処置しているひとの名前も分かりません。

一応、病院ですから、何か記録が必要です。

 

手帳を破り、名前、年齢、病状、日時、

処置の内容を書き、枕元に置きました。

これが「応急カルテ」でした。(続く)