《0304》 風呂やトイレで検視をして [未分類]

毎年この季節になると、朝一番に警察から電話がかかってきます。
「お宅にかかっている患者さんが、風呂で亡くなっています」と。
トイレに座ったまま亡くなっている人もいました。

風呂とトイレは、この季節、血圧の変動が大きいのです。
この2カ所が死に場所ですよ、と普段いくら力説しても、
死んでからでないと、その意味に気がついてくれません。

元気で外来に通ってきていた患者さん。
そこそこ元気で在宅で診ていた患者さん。

数日前の笑顔と、目の前にある変わり果てた顔の差に戸惑います。
変わり果てた患者さんのお顔を眺めながら、いろんな想いが巡ります。

「こんなはずじゃなかった」、とか「まさか死ぬはずはない」といった
叫びが聞こえてくるようです。

高齢化が進み、既に多死社会に入っています。
全部、誰かが見届ける「死」ばかりではなくなってきました。

また、単身世帯が複数世帯を上回りました。
老若男女を含めて、「独居」が標準なのです。
「おひとりさま」が死んだ時、誰かに発見してもらうまで「死」ではない。

近所の人やヘルパーや家族が慌てて救急車を呼びます。
もし冷たくなっていれば、救急隊は警察を呼びます。

プロが事件性の有無を調べますが、倒れ方を見れば私でも分かります。
もし事件性が疑われれば、遺体を警察に運び監察医が検案するのでしょう。

しかし、監察医はボランティア的な医師の善意に何とか支えられているだけで、
どこでも大幅に不足しています。
そこで事件性のない検視は、かかりつけ医に手伝ってほしいと依頼が来ています。

そうしないと、死体検案はとても回りません。
かくして、警察と開業医の検視をめぐる連携の機会が増えました。

死亡時刻は、警察が言う死亡推定時刻を書きます。
半日以内なら直腸温から推定し、それ以上なら遺体の状況から
推定しているようです。

病気での死亡と違って、いくら多少弱っていたとしても「想定外の死」には、
私もさすがに動揺します。
やはり「かわいそう」という感情が、湧き上がります。

慌てて診察室に帰って、「お風呂とトイレは気を入れて入ってくださいね、
そこがあなたの死に場所になるかもしれないですよ」なんて話しても、
誰も真剣に聴いてくれません。

「死」は、自分のことになって初めて、信憑性を得ます。
それまでは、「死」はあくまで、他人事なのです。
すなわち、「死」は一生他人事。

どうやら人間の神経はそのようにできているようです。
だから、強く生きられるのでしょうか。
死者の顔からいつもそう感じます。