自分が認知症終末期になった時、胃ろうを希望するという人は、ほぼゼロです。
しかし自分の親がそうなった時は?と設問を変えると、3割が手を挙げます。
この設問には、悩んでどちらにも手を挙げられない人も沢山います。
悩んでいる、一人ひとりに真剣にその質問を向けてみました。
ほとんどの人が「分からない」と答えました。
それでも、どちらかを選んでくださいと問うと、「選べません」との答え。
では、「あなたは自分の親の胃ろうの是非をどうして選べないのですか?」、
そう突き詰めて、ある有識者に訊いてみました。
その方は、「自分の手は汚せない」と本音を漏らしてくれました。
これは、多くの日本人の本音であるのではないでしょうか。
自分が決断すると、後で自分が責められるかもしれない。
では、一体誰に、「手を汚させて」いるのでしょうか?
病院の先生でしょうか?
彼らも「手を汚したく」はありません。
「汚した!」と訴えられれば、とりあえず警察にしょっ引かれます。
では、しょ引いた警察は、正義でしょうか?
刑法という日本の法律に基づいた行為は、正義に他なりません。
しかし、そもそもその「刑法」は、現代日本の正義なのでしょうか?
この問題を突き詰めると、どうも「法律」に行き当たるような気がします。
みんな、「手を汚す」と「しょ引かれる」かもしれないので決断できない。
石飛先生でも、「しょ引かれる」ことを覚悟してあの本を書いたそうです。
実は私も「しょ引かれる」ことを覚悟して実名ブログを書いています。
社会全体が、社会全員が、「死」を直視しようとしません。
老衰や病気で人が死んだら、それは誰かの過失に転嫁したい。
そんな風潮を感じます。
そんなリスクを負いたくないから、外科、産科、小児科から医者が逃げ出す。
患者さんや世論が、「たらい回し!」と追い打ちをかけるという悪循環。
余命1週間の患者さんに、さりげなく訊いてみます。
「家か病院のどちらで死にたいか」。
「自分は分からんから、家族に訊いてくれ」と答える人が実に多い。
それを受けたご家族は、「すべて先生にお任せします」と。
家で死ぬか病院で死ぬかという、最も重要な決断でも
「他人にお任せ」のことが多いのです。
日本人は、自分自身であっても身近な家族であっても
「死」を誰かに委ねたいのです。
委ねてしまえば、後でいくらでも文句を言えますから、楽です。