《0328》 できることから始めよう [未分類]

言葉がありません。
ただただ、祈るだけです。
昨日は、大阪で開催中の日本在宅医学会で司会を務めながらも、
何の役にも立てない自分が情けなくて心の中で泣いていました。

今回は、16年前の阪神大震災での私のつたない経験を書きます。
極めて個人的な雑感です。
状況は当時とはかなり違うとは思いますが、参考になれば幸いです。

地震発生2日目の夕方(地震発生後1日半)だったと思います。
病院給食の方に握っていただいた白いオニギリが配られました。
あのオニギリの味は、今でも忘れません。

ただしその配給は、1人1個と厳しい配給が制限されていました。
もう少し食べたかったですが、我慢するしかありませんでした。

患者さんの配給も、我々も同じで、1食に1個でした。
翌日の配給は、1人2個に増えました。
翌々日には、おしんこが付き、4日目には、味噌汁も付き、感激でした。

当たり前のことですが、被災地には食糧がありません。
ですから、たとえオニギリ1個でも、とても嬉しいものでした。

食材もなければ炊飯器や調理の水もないので贅沢は言えません。
もしカップラーメンがあったなら、喜んで食べていたでしょう。

とにかく、その辺にあるものを食べながら働き続けました。
最初に困ったのは、とにかく食糧でした。

次にトイレの水にも困りました。
なるべくトイレを使わないように!と大変難しいお達しが出たと記憶します。

私の自宅は、1週間停電し、約1カ月間断水していました。
停電していたので夜が怖かった。
といっても最初に自宅に寄れたのは、確か4日目でしたが。

1週間目には、様々な「お水」が毎日大量に届けられました。
最初は嬉しかったのですが、大量に来たので余ってきました。
生水は感染リスクがあるのでペットボトルの方が嬉しかった。

3日目、4日目でも、掘り起こされた人が続々と運ばれてきました。
今日は3日目。
まだまだ、「掘り起こし」で救える命があるはず。

自分たちが置かれている状況を知るまで、3日くらいかかりました。
すなわちテレビ等を見れないので自分自身が被災地のどのレベルに
いるのかを客観的に把握するまでに、結構、時間がかかりました。

今でも、自分自身がどんな状況にいるのか、よく分からない人が、
相当数いると想像します。

外部の人間は分かりますが、内部は分からない。
私は病院の詰所にいたので、外部からの情報源はもっぱらラジオでした。
その時、非常時のラジオの力を思い直しました。

数日後、友人・知人から病院に電話がかかってきました。
それには大変勇気づけられました。
多くの人からいただいた励ましの言葉は一生忘れません。

現在でも、連絡がつかない知人がいます。
きっと過酷な状況の中、必死で働いているものだと思います。

医療者は、昼も夜もありません。
そこにいる医療者だけが不眠不休で働き続ける。
それが医療者の責務であり本能でもあります。

既に知人の病院から医療チームが現地入りしています。
知り合いの訪問看護師チームも、今日、新潟経由で入ります。
別の看護師チームも、週明けに、現地入りするそうです。

16年前も1週間以降、続々と全国から医療チームに入っていただきました。
当初の混乱が少し落ち着き始めた時期でしたが、我々の疲労は
極度に達しており、肉体的にも精神的にも助けられました。

病院に収容された人たちを助けるのも大切ですが、在宅患者さんを
支える活動も必要です。

また医薬品の供給ルートは停止しているはず。
おそらく、診療機能を失っている医療機関も多いはず。

機能している医療機関のリストアップが急がれ、広域での「トリアージ」体制を
検討すべきです。

冷静に全体像を把握することが大切です。
飛び交う情報を集約すべきです。
そもそも、交通の現状はどうなっているのか、から。