《0368》 瓦礫の山 [未分類]

瓦礫の山の撤去が大変だと、報道されています。
テレビの映像も新聞の写真も、一面瓦礫の山です。

しかし、いつから「瓦礫の山」になったのでしょうか。
遠目には瓦礫の山でも、近目には人生そのものでは。

瓦礫を一つひとつ観察するとすべて人の生活です。
意味のない瓦礫・ゴミなど、どれ一つないはずです。
すべての瓦礫は、すべて人間の生活そのものです。

16年前の阪神大震災の時も、同じような思いでした。
瓦礫の山は持ち主にとっては思い出の山だと思います。
そこに戻った時には、既に瓦礫が撤去されていました。

持ち主が亡くなったり病院で生死をさまよっていたり、
すぐにその場所に戻れない持ち主が、沢山いました。
16年前はその場所でしたが、今回は移動している。

瓦礫の山から廃材を取り出し店を建てた人がいました。
日本家屋の素晴らしい梁や柱などが、集められました。
実に味わい深い癒しの空間が出来客を和ませています。

豪邸だったのでしょう。
その立派な「梁」の持ち主は、悔しかったかもしれません。
しかし廃材として燃やされるより再利用された方が嬉しい?

「瓦礫の山」という言葉がどこか引っかかって仕方がない。
持ち主にとっては宝の山でも、作業者にとっては瓦礫の山。

たった数分で、「宝」が「瓦礫」に化けた?
こんな感傷的なことを言っていては、復興はないのでしょう。

瓦礫の山から写真を取り出して洗って持ち主に返すという
名もないボランティアさんの優しさに、心が動かされます。

自分自身の「瓦礫の山」撤去を見たら、人生観が変わるそうです。
仏教的観点から見れば、極めて当たり前のことかもしれません。
しかし自分自身に突然押しかかってきた時耐えられるでしょうか。

昨日も今日も、私は在宅患者さんの「死」に接しています。
亡くなった瞬間から、「人の体」は、「死体」に変わります。
いや、法律で変えなくてはいけないのです。

しかし決して「瓦礫」に変わるわけではありません。
数日後に灰になっても、まだ瓦礫ではありません。
しかし「灰」と「瓦礫」は、実は同じ表現かもしれません。

瓦礫の山は、それを処理する人にとっては過酷な作業です。
自衛隊や消防による、ご遺体の収容、埋葬も同じでしょう。

悲しみの中の難作業が、心の傷として残らないか心配です。
今後、PTSDの増加が懸念されています。
いや、既に諸症状が始まっているそうです。

気分転換や休息が必要な時だ、と思います。