《0377》 岩手で聞いた避難所生活の現実 [未分類]

昨日は、1日で100年生きたような気がしました。
岩手県大槌町では高台の避難所まで呑み込んだ爪痕を見ました。
こんな高い所まで、津波が来ることは信じられません。

釜石市では、大きな船が突っ込んだ家の皆さんとお喋りも。
家の屋根に船が顔を出しているご家族の気持ちをうかがいました。
瓦礫の処理をされているご老人とお孫さんの話を聴きました。

釜石の小さな漁港では漁師さんが自宅の瓦礫を探していました。
かろうじて生き残った漁船を見せていただきました。
生き残ったといえ、エンジンも船体も破損しています。

後期高齢者であるその漁師さんは「船がほしい」と言われました。
「船さえあれば、明日からでも漁に出たい」と言われました。
釜石の高校生も老人も絶対に海から離れないと決意されていた。

陸前高田は、壊滅というより、町の原型がなくなっていました。
カーナビは、既にない道しか教えてくれません。
どこに鉄道があったかさえ全く分かりません。

流された線路の残骸を眺めていました。
「言葉がない」、としか表現できません。
津波というものが持つエネルギーを体感しました。

気仙沼では、食堂で働く女性とお話しさせていただきました。
一見普通に見えるその方は一族の家が3軒流されました。
彼女の避難所生活の現実を聴きました。
避難所を支援するボランティアさんを気遣っていました。

そのボランティアさんは、横浜から来た70歳代の男性。
彼はずっと自分の車の中に寝泊まりしています。

食糧はカップラーメンのみ。
ボランティアは被災者の食糧を食べられません。
雨の日は、車の中で魚を焼いて食べています。

見かねた被災者がボランティアさんに弁当の差し入れをしました。
彼は、この1カ月で初めてご飯を食べられたと喜んでいたそうです。
被災者がボランティアを支援している、という実態に驚きました。

その被災者の高校生の息子さんは、地元のボランティア組織に属して
瓦礫の処理を手伝っていました。
被災者は、ボランティアを助けたり、ボランティアもしている…… 。

彼女の避難所には、布団はありません。
毛布で寝ています。
下が3枚、上が3枚。

3日前に避難した「先住民」の毛布は、なぜか5枚。
しかし、誰もその避難所内格差には言及できないと。

避難所は男女の区別がない、ゴロ寝状態です。
自分の顔のすぐ横には、知らない男性の足があります。

彼女に訊いてみました。
「枕はあるのですか?」と。
やはりその避難所には、枕は皆無だそうです。

数に限りはあるが、いくつ必要か訊いてみました。
家族の分三つと友人の分二つ、と答えました。
五つをプレゼントすると大喜びされ、私も嬉しかった。

1日一つだけでも、いいことをしようと心にかけています。
とりあえず今日はたった一つですが喜んでもらえました。
夕刻、尼崎市が支援する気仙沼の海に近いホテルに着きました。

このホテル望洋の社長さんらと午前零時を回ってもお話ししました。
1冊の本が書けるくらい、沢山のお話をしました。
この方々とお喋りするためにここに来たことを確信しました。

ご縁とは本当に不思議なもの。
このホテルが残ったこと自体も、まさに「奇跡」そのものです。
書きたいことが山のようにあるのですが、時間がなくて書けません。

おいおい、書かせていただきます。
岩手、宮城と南下しながら、男4人で珍道中をしています。
少しはいいこともしながら、生きている不思議を噛みしめています。