《0434》 「死」とともに生きる毎日 [未分類]

昨日、東京で日本尊厳死協会の総会と理事会が開催され、
関西支部の支部長と、本部の常任理事を拝命いたしました。
高齢化社会における尊厳ある「死」を、考えていきます。

東京に滞在したのは、わずか1時間。
午前の往診と診療を終え、伊丹から飛行機に飛び乗り、
トンボ帰りで17時に帰阪し、講演、司会を務めました。

私のクリニックから空港まで、高速を使って約20分。
自由に「移動」できることのありがたさに感謝しました。
「瞬間移動」にも近い不思議な感覚を、味わいました。

機内では、7月に出版される書籍の校正をしていました。
狭い場所なのでなぜか作業に集中でき仕事ができました。
しかし睡魔が襲い、10分ほどヨダレを垂れて寝ました。

思えば、今週も沢山の死と向き合いました。
病気の死、老衰の死、時間がたった検案死。
さらに、自ら選んだ死。

東北には、なお行方不明者が7000人もいるそうです。
しかし3カ月経過すると自動的に死亡として処理される。
遺体のない「死」と、どのように折り合いをつけるのか。

まだ見つからない東北の行方不明者に心を痛め、
それを待ち続けるご家族の記事に、心を痛める。
さらに、今なお捜索する自衛隊の記事にまた涙。
「死」とともに生きる毎日。

東北の「死」と、自分の周囲での「死」。
人間だけでなく動物の「死」もありました。

よく活動するので「躁病」ではないかと、よく疑われますが、
自分の中では沢山の死に接して「うつ病」にならないか心配。
まあどちらにせよ、あまり「普通」の毎日ではない町医者です。

そんな私が日本尊厳死協会に関わることは自分の中では、必然。
既に、「死」から「生」を考える習慣がついてしまいました。
今回の多くの「死」を、一体どう受け止めたらいいのか。

来月から、外来診療を少し抜け出して会議に上京します。
患者さんには本当に申し訳ないことだと認識しています。
しかし早く進めるべき大切な仕事も沢山あると思います。

日本人の死生観が、相当におかしくなっています。
尊厳のない死と、尊厳のある死の、曼荼羅に生きています。
患者と家族に寄り添うのが信条ですが、容易ではありません。