《0531》  がん患者の提訴した裁判の本質 [未分類]

今日から10月。
ようやく涼しくなってきました。
運動の秋ですね。

なーんて書いていますが、私は今週はすべて午前様。
イケメン研修医を朝から深夜まで連れて回りました。
わずか1週間で、彼はほぼ一人前の在宅医になった。

最近日本中から志ある研修医や医学生が来てくれます。
看護師やケアマネを含めると数え切れないくらいの数。
研修生を同伴して在宅を駆け回るのが定例になりました。

医療の原点、在宅医療の本質を1週間で教えます。
ヘトヘトに疲れます。
普通に診療するのにくらべ多大のエネルギーが要ります。

それでも深夜までついてくる研修医がいると嬉しくなる。
嬉しいので、さらに教えることに力が入ってしまいます。
そして深夜に抜け殻になってこのブログを書いています。

中医協の話以来、医療制度の話が続きます。
多少難しいですが、所詮交通ルールのようなものです。
それも患者さんのためのルールですから、もう少しだけ。

昨日がん患者さんの清郷伸人さんの主張を書きました。
まず、彼は混合診療解禁を主張されている訳ではありません。
混合診療禁止で失われる患者の利益を問題にしているのです。

彼の書かれた文章が私は大好きです。
極めて自然で素直な考えだからです。
私自身もかねてから同じように思っていました。

彼は国民皆保険制度の本質を炙り出してくれています。
かなり優れた制度であることは、間違いありません。
しかし、改良の余地はまだ充分にあると思います。

高血圧の治療とともにインフルエンザワクチンを
打つのは、なぜ混合診療にならないのか、不思議ですね。
無論、カルテは分ける必要はありますが。

一方、保険の効く抗がん剤と保険の効かない抗がん剤の併用は
保険診療規則上、混合診療として固く禁止されています。
その時、患者さんは本来保険の効く部分を失ってやいないか。

清郷さんがMRICvolに書かれた文章を転載させて頂きます。
少し難しいかもしれませんが自分の身に置き換えてみて下さい。
国民皆保険制度や混合診療の意味を今一度一緒に考えませんか。

がん患者の提訴した裁判の本質
清郷伸人

1.提訴に至った経緯

私は腎臓がんの患者である。手術後、転移したために病院で、インターフェロンという保険治療とLAKという保険外治療を受けた。その治療を続けたおかげで病状は悪化せず、転移がんをかかえながら今日まで日常生活を送ることができた。しかし4年後複数の患者に行っていた病院のその治療を週刊誌が報道し、病院はLAK治療中止のやむなきに至った。中止によって衝撃を受け、不審に思った私は、調査の結果、混合診療を禁ずるという行政制度の存在を知った。それは私が受けていたように、保険治療に保険外治療を併用したら病院は保険病院の指定を取り消され、患者はそれまで受けていた医療費の保険受給分を全額返還するという厳しい処分が科されるという国の医療制度である。

医療にはまったくの素人で、転移がんという死の瀬戸際にある患者であった私は、なぜ命を保ってくれる医療を奪われなければならぬかと心から疑問に思い、その医療制度を徹底的に調べた。そして私の病院が保険外治療を併用できなくなった理由は、厚生労働省が健康保険法は混合診療を原則として禁じているという解釈で医療制度を律しているからだと知ったのである。さらにこの制度に対しては、医師や薬剤師、学者や患者団体にいたるまで多くの賛成者と医師や学者に少数の反対者がいることもわかった。

それら賛成者と反対者の意見を探っているうちに、私は混合診療というものの姿がだんだん見えてきた。それには功罪ともにあり、反対する意見にも賛成する意見にも一理あることがわかってきた。しかし私には、混合診療を禁ずる制度に違反した場合に科される、健康保険の被保険者である患者から一切の保険受給を奪うというペナルティだけは許し難いという思いは消えなかった。こうして私は東京地裁に提訴した。訴状の請求内容を次に記す。私の裁判の本質はそこに明らかである。

「私が活性化自己リンパ球移入療法と併用している、健康保険法に基づく保険医療であるインターフェロン療法について、療養の給付を受けられることの確認を求める。」
活性化自己リンパ球移入療法とはLAK治療の一般的日本語訳、療養の給付とは保険がきくことの法律用語である。この請求内容は最初のものが素人の本人訴訟の悲しさでお粗末だったため審理途中で訂正したものである。しかし最初の訴状にも「保険受給権を認めよ」という請求を私は書いていた。

2.判決の意味
2007年11月に示された判決は、原告である私に保険医療については療養の給付を受ける権利のあることを確認するというもので勝訴となった。ただ判決は勝訴の理由について、保険外診療を併用した場合の保険診療への保険給付を一切停止することの法的根拠はないと述べたもので、混合診療の是非については判断を留保しており、また保険給付停止は憲法違反であるという私の主張にも、保険給付停止が違法であるという判決が出ているのだから、この上さらに憲法判断まで行う必要はないとされた。そして次のように結んでいる。

「混合診療については、…それに伴う弊害にどのように対処すべきかという問題があり、他方で、自由診療が併用された場合にもともとの保険診療部分についてどのような取り扱いがされるかという問題があるところ、これらは別個の問題であって、…本件の問題の核心は、まさに後者の問題」(18頁)
すなわち私の裁判の本質は混合診療の解禁という問題ではなく、混合診療における被保険者の保険受給権の確認にあると明言しているのである。

このように判決は私の請求に過不足なく、的確に緻密に答えたものと思う。私は裁判で、混合診療を解禁すべきか否かという、極めて専門的な問題を出したのではない。あくまで保険料を正しく支払った普通の被保険者の権利の確認を求めたのである。

それが混合診療の解禁に結びつくのは、保険給付停止と混合診療禁止をセットにしている国の制度の責任である。混合診療を禁止する措置の担保には、他にいろいろな方法があるはずである。一般に需要と供給に関する規制を担保する場合、消費者ではなく供給者を縛るのが合理的である。まして混合診療の場合、普通の消費者ではなく、命の懸かった患者である。重い病という不安の上に、患者を経済的にどん底に突き落とすこのような措置制度は非人道の極みというべきである。

判決を冷静に正当に受け止めるなら、国は控訴などせず、速やかに混合診療禁止とそれに伴う保険給付停止の立法措置を講ずればよいのである。判決が混合診療禁止の是非は問わず、ただ法的な根拠がないとしているのだから。国は「保険医療機関及び保険医療養担当規則」の18条と19条に根拠は書かれていると主張したが、健康保険法という法律に禁止の明文規定はないとして退けられた。当然である。混合診療の禁止やこれに伴う被保険者の保険受給権剥奪といった基本的人権に関わる重大事を規則や政省令といった官僚の作文(法律は議員が制定し、それに付随する政省令や規則は官僚が作るというのがわが国の法令体系である)で規定し、行政執行するということは、それらが上位規範である法の趣旨をねじ曲げ、改変することとなり、許されない。その行為は民主国家の基盤である三権分立の立法権を侵すことになるのである。

その許されないことを行政は長期間、全国の医療機関や患者に対して強力に執行してきた。難病や重病の患者に対して良かれと思って先進治療やがんの未承認薬などを施術した病院が、混合診療禁止違反の摘発を受け、保険病院の指定を取り消されるという報道はよく眼にするところである。しかし実はこのようなリスクを前にしても多くの病院は混合診療を患者のためにひそかに行っている。これは先進的な治療を行う病院の医師の間では常識で、混合診療がなければ医療は成り立たないとさえいわれるくらいである。そして混合診療を回避して実質的に混合診療を行うヌケ道はいくらでもあり、さらに厚生労働省の高官自身が混合診療のヌケ道は多くあるのになぜ裁判なんかするかとかヌケ道があって禁止の実害は生じていないのだから騒ぐなといっているのである。しかし私は、ヌケ道ではなく、病院が堂々と萎縮することなく混合診療を行えるようにしたいだけである。

3.混合診療に関する議論の検証
そのように私は、混合診療を堂々と行えるようにしたいと考えている。そのメリットはたくさんある。保険治療を尽くしてもなお効果が上がらず、倒れていく難病や重病の患者やそういう患者を助けたいと思っている医師が、海外でも認められている先進的な治療や未承認薬(世界で標準的に使われている抗がん剤の約4割が日本では認められていない)を選んで、試すことができるようになる。しかもその場合、医療費全額が自己負担になる現状と違って、保険診療には保険を使える合理的な経済的負担で治療を行えるようになる。また現状では混合診療が禁止されているために、病院は日進月歩の医療技術や治療法も一切手を出せず、試すこともできない。科学的な医療の進歩のためには、客観的な臨床データの地道な蓄積は欠かせないが、その扉は日本では閉ざされている。コッソリと潜行して行われる混合診療は、危険なばかりでなく、大切なデータを公開することもできない。

一方、混合診療に反対する声は大きく、広く聞こえてくる。行政をはじめ医師、薬剤師、学者、患者団体などから繰り返し反対が語られる。それらの声に耳を傾けると、反対の理由は次の二つに収斂されるようである。一つは、医療の平等性が損なわれるというもの。国民皆保険制度のもと医療は国民に平等に開かれている。医療費の負担も全国一律、平等に保たれている。混合診療によって、金持ちだけが高い医療を受けられるようになる。また病院は混合診療で併用する保険外医療の価格を自由に設定できるから、患者に不当な負担増加が生じる可能性があるというものである。

もう一つは、医療の安全性、有効性を確保できなくなるというもの。保険医療に関しては、その医療を保険に入れる際に専門的な機関で、その安全性や有効性をキチンと審査するが、保険外医療はそれらの審査がないので安全性や有効性を保証できないのである。

二つとも混合診療を認めた場合、想定されるもっともな理由と思う。ただ平等性に関しては、医療の平等という建前は現状でも崩れていると思う。保険など一切使わなくてもよい真の金持ちは、先進的な治療を求めて、今でも国内で混合診療ができるし、不自由な日本を離れてタイやインドや欧米などで治療を受けることもできる。そこまではできないが、ある程度は自費で先進治療を受けられる中産階級が全額自己負担の大きな被害をこうむっているのである。

また入院すると誰でも直面する差額ベッドの問題も平等の建前と大きく異なる。重症で個室や差額ベッドでなければならぬケースはまれで、ほとんどは金持ちの患者の希望か、普通の患者が病院の収益のために必要もない差額ベッドを半ば強制されているのである。医療は平等でなければならぬといって混合診療反対を叫ぶ医師も、自分の病院の差額ベッドには知らん顔である。

もっとも医療には公定価格以外一切認めぬ国の指導のもとで、極限まで削減された医療費により医師の士気と病院のシステムは半ば壊れているといえるが。私は混合診療を認めても、米国映画「シッコ」のような医療の惨状が日本で起きるとは考えない。それはためにする被害妄想である。国民皆保険で、お上依存の国民性の日本人は、自由と自己責任を重んじる米国民とはまったく異なるのである。

もう一方の安全性・有効性に関してはまったくその通りで異論はないが、国民に本当に医療の安全性・有効性を保証するならば、保険医療以外のすべての自由診療に対してもキチンと検証すべきである。なぜなら多岐にわたる医療分野で、さまざまな自由診療は広く行われているからである。また医療過誤や医療事故は保険医療や保険薬でさえも数多く起きたことは周知の事実だし、サプリメントと称するものにも死亡事故は起きている。混合診療と称して保険病院で保険医の行う自由診療のみを危険視して禁止するとはまったく不合理で片手落ちである。禁止するなら審査をまったく受けていない世のすべての自由診療を対象とすべきである。

また安全性・有効性に関してはまったく別の議論もある。通常の感染症などと違い、死に瀕するような難病・重病では安全性・有効性よりもわずかな効果の可能性に賭けるほかないことがある。それに賭ける患者の意思を誰も非難することはできないし、その可能性の道が現状のようにまったく閉ざされていいとも思えない。今でも全国の病院では、毎日のように医師ががん患者や家族に「もうこれ以上治療はありません。退院してホスピスに行ってください」と言い放つ光景が繰り返されている。それは保険治療が尽きたということであって、許されれば試す価値のある治療は他にまだあるのである。

4.私の裁判の本質
このように検証すると、混合診療は現状のように禁止されているより、原則行えるようにした方が、患者のためにも病院のためにも良いと思う。原則行えるというのは、どんな医師でもどんな病院、医院でもやれるというのはあまりにもリスクが高いので、一定のハードルは必要ということである。ただ現状のように原則禁止で、例外的に混合診療を求める際もほとんどの病院がその承認申請をあきらめるほどハードルの高い制度は改めるべきである。混合診療は実施不可医療機関の規定と実施の際の義務(十分な説明と同意など)規定と違反に対する厳罰規定を設けて、原則実施とすればよいと思う。

それでもなおやはり混合診療は禁止すべきだという声が大きいなら、日本では実施は無理ということで、難病や重病の患者はあきらめるほかない。ただ私には、その声は主に開業医や薬剤師や一部の学者、患者団体などのステークホルダーであって、NPO法人日本医療政策機構の08年4月発表の世論調査によれば一般国民の8割は難病、重病患者への混合診療には賛成である。

いずれにせよ私の裁判の本質は、混合診療を是としてその実施を求めるものではない。あくまでも混合診療を行った場合の、被保険者の保険受給権の確認を求めるものである。それが結果的に混合診療の実施を求めることになるのは、繰り返すが国がその二つを一体としている政策の責任である。しかしキチンと立法措置を講ずれば、その二つは切り離せるのである。

私はそのような請求を掲げて提訴を行ったが、その請求の理由は次の2点である。まず混合診療で被保険者の保険受給権を国が剥奪する法的根拠がないということ。健康保険制度の法律である健康保険法のどこにもそのようなことを明確に規定した条文はない。全国の医師や医療機関は、厚生労働省が法的根拠もなく混合診療を禁じ、それに違反した罰則として病院の保険指定を停止し、給付保険返還を強制していたとはまったく思わなかった。国がどれほどの損害を患者や医療機関に与えたか想像もつかない。(真の被害者は、海外でも認められた治療がまだあるのに保険以外の治療を一切受けられずに亡くなった患者だが)

次に保険受給権の剥奪は、憲法で保障された生存権と平等権と財産権を侵しているということ。生存権とは憲法25条の「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という条文のことである。保険受給権の剥奪によって混合診療の禁止を確立する制度は、患者から治療効果を期待できる医療の可能性の芽を摘んでいることで、患者の治療選択権、医療における自己決定権を侵し、その結果生存権を侵している。また憲法14条にすべての国民は法の下に平等であるという条文があるが、正しく保険料を払った被保険者が保険外医療を一つ受けただけで、保険受給権を奪われるのは、保険医療のみを受けて保険を受給する被保険者との間に看過できない不平等の扱いを受けているといえる。

また財産権は憲法29条に謳われたもので、健康保険は支払った保険料の対価であるから、法的にも被保険者の財産といえるものである。個人の財産を国といえども奪うには、相当に重大な理由が必要だが、混合診療がそれに当たるとはとてもいえない。民間の保険会社が、このような理由で契約の保険金の支払いを拒んだら、提訴されて負け、2度と契約してもらえず、倒産するだろう。

以上のような理由から、私は混合診療において、保険診療には保険受給権があることの確認を求める訴訟を起こしたのである。では私が最高裁まで行って勝訴したら、混合診療は原則実施されるようになるか。それは多分難しいし、私のあずかり知らぬことである。なぜなら混合診療のもう一つのペナルティである医療機関の保険指定停止は、私の訴訟の請求にはないからである。だからこれについては、審理はされていない。ただ私が勝訴すれば、それについても同じく法的根拠がないとして実効性を失う可能性はある。しかし混合診療の実施を確実にするためには、医療機関も私のように提訴することである。いずれにせよ私の裁判の本質は、混合診療の是非を問うというより混合診療における保険受給権の確認にあり、それを剥奪している非人道の行政制度を葬ることなのである。

現在、東京高裁で控訴審を闘っている私が、今回このような原稿を書く気になったのは、私の裁判を混合診療の解禁を求める訴訟という誤解が目につくからである。転移がんをかかえた難病患者の私は、混合診療は実施されるべきだと思うし、受けたいと思うが、この訴訟においては、なによりも被保険者の権利を正しい姿に回復させたいのである。現状のように法律の明確な規定もなく、行政が自分勝手な解釈で、憲法を侵すような権力を、国民に押し付けている国は、決して法治国家でも民主国家でもないのである。
(2008/11/15)