《0532》 病気によって異なる意義 [未分類]

昨夜、大好きな桑田さんのライブをテレビで見ました。
9.11に仙台で行われた復興コンサート。
すべてが素晴らしくて、久々に感動を味わいました。

彼の歌詞と曲は衰えるどころか進化していた。
どんなアーテイストも詩人もかないません。
仙台の地で、彼が再起した意味は大きい。

彼と同じ時代を生きれる幸せを、かみ締めています。
しかし現実は、講演や教育や雑用に追わる毎日です。
昨日は主任ケアマネさんに3時間の講演をしました。

ケアマネも医療制度を勉強しておくべきだと話しました。
本当は、医師も看護師もそうなのですが。
保険制度のお話は、ひとまず終わりにします。

清郷さんの主張への答えは、私は持ち合わせていません。
しかし、みなさまの意見を聞けてよかったです。
難しいけれどかなり本質的な問題だと思い引用しました。

今日からまたしばらく「胃瘻(いろう)」について書いてみます。
毎日が胃瘻との闘いと言っても過言ではないからです。
この世に胃瘻など無かったらなーと思う事がシバシバ。

私はいい加減な町医者なので文検等を調べることをしません。
自分の経験と感覚だけを頼りに本ブログを書いていますので、
間違っていたら遠慮なくご指摘、ご批判を頂ければ幸いです。

私のことを指して「胃瘻バッシング」と呼ぶ人がいます。
ふーん。まあ、胃瘻のいったい何が問題なのでしょうか?
あちこちで胃瘻の議論が始まっていますが少し復習です。

胃瘻には、実にいろんな意味があります。
本来は食道や喉に障害があり食べられない人のための物。
しかし気が付いたら高齢者の延命に多用されていました。

延命のための胃瘻と書きましたが、現場ではどこからが
延命処置なのかがハッキリしない点もあります。
食べられない理由も様々です。

純粋な老衰で嚥下機能が落ちた。
認知症終末期で嚥下機能が落ちた。
脳梗塞で嚥下機能が落ちた。

これらは似ていますが、少しずつニュアンスが違います。

純粋な老衰なら、生理的なもの。
本人の希望も聞けます。
動物と同じでしょうがないと、諦めもつきやすい。

認知症終末期の場合は、本人の意思が確認できません。
年金等の関係で家族が強く希望する場合、断れません。
一方、肝心の家族の意見が割れることもよくあります。

脳梗塞の場合、半分、意思表示が出来る場合があります。
胃瘻で状態を立て直せばその後、自力摂取に戻れる場合も
あるので、胃瘻の造設には常に頭を悩ませています。

神経難病の場合も、ケースによって少しずつ違います。
ALSのように、意思表示がしっかりできる場合と、
少し意識レベルが落ちていたり認知症を合併したりする場合もあります。

一般に神経難病の場合の胃瘻は福祉用具と理解しています。
本人の意識レベルが正常な場合、原則的に胃瘻を勧めます。
しかし、本人が拒否される場合も時々あります。

まさしく「尊厳死」なのですが、尊厳死がまだ合法化されて
いない現在の日本では多くの医師には後ろめたさが残ります。
結局本人の意思があっても無くても迷うのが、胃瘻なのです。

子供の胃瘻は別にして、高齢者の場合の胃瘻については、
老衰、認知症、脳梗塞、神経難病に分けて考えています。
単純に、胃瘻賛成・反対とは言えない難しさがあります。