《0537》 生きて楽しむための胃瘻 [未分類]

胃瘻という医療技術は、人間を幸せにしたのでしょうか? 
先日、現在胃瘻中の患者さんの介護者に聞いて回りました。 
ほぼ全員が、少しおいて、「幸せです」と答えられました。

日々の胃瘻介護を自己否定する人は多くは無いでしょう。 
少なくとも「不幸」と思うなら私に相談に来るはずです。 
しかし「幸せです」には色んな意味が込められているはず。

患者さん本人が「幸せだと感じている」と推測する。 
また介護者本人が「胃瘻介護に幸せを感じている」。 
両方の意味合いがあるでしょう。

もう少し懐疑的な答えが返ってくるかと予想していました。 
しかし、予想は全く裏切られました。 
但し本人が本当に幸せかどうかは確認しようがありません。

老衰終末期の胃瘻と認知症終末期の胃瘻では 
意味合いが少し違います。以上は認知症の話です。 
老衰は意思表示できるが、認知症は意思表示できない。

いずれにせよ、胃瘻という医療技術は 
生きて楽しむために利用するものです。 
楽しめるなら延命行為は悪くは無いでしょう。

問題は、楽しめているかどうか分からない人や 
どう見ても楽しくなさそうな人がいることです。 
その時に胃瘻を中止できないことが問題の本質です。

そして、楽しいとか楽しくないかの判断は難しい。 
その間に線を引くのは、大変難しいないし不可能。 
また、意思表示できるかどうかの区別も困難です。

沢山の書き込み、本当にありがとうございます。 
お答えする時間が無く本当に申し訳ありません。 
このブログの中で書いて行きたいと思います。

実際に胃瘻介護を経験した方のご意見は貴重です。 
是非、忌憚ないご感想をどしどしお寄せください。 
匿名性の良さが、ここで発揮できるはずです。

さて、以下は微妙な話です。

これまで胃瘻を中止して欲しいと私に依頼してきた 
介護者が何人かおられました。 
全員、意識レベルが低く意思表示できない患者さんでした。

一人は、栄養剤注入中止を前提に自宅に戻られました。 
帰宅されてから、注入量を徐々に減らしていきました。 
わずか1週間ほどで旅立たれました。

別の方は家に帰ってから鼻のチューブを抜きました。 
喜ぶ仕草が少し見られ、少量ですが少し食べました。 
しかし、残念ながら、1週間ほどで旅立たれました。

残念ながらと書いたのは、 
私はもう少し食べると予想していたのです。 
しかし、私の予想は間違っていました。

家族は、死を完全に覚悟していました。 
覚悟して、最期を家で迎えさせたかったのです。 
介護者の手の中での旅立ちを大変満足されていました。

2人とも、帰宅時に誤嚥性肺炎を併発していたようです。 
死期が近いと病院主治医から宣告されて帰ってきました。 
栄養剤減量だけが死亡した原因では無いと思われました。

また別の人は、家族の希望で鼻からのチューブを抜きました。 
すると翌日から食べ始めました。 
いまのところ、亡くなっていません。

この人の場合、私も大変迷いました。 
自宅に帰って、いきなり中止はしませんでした。 
注入量を少しずつ減らし1週間目に抜きました。

抜くのは、ホンの一瞬です。 
まあ気が変わったらまた、鼻から入れればいいのです。 
鼻からのチューブは、入れるのも簡単です。

多くの胃瘻・経鼻栄養患者さんの介護者は、 
胃瘻にさほどの疑問を持っておられません。 
これは現実です。

しかし、疑問を持って私に注入中止を依頼してきた 
介護者も確かにおられ、私なりに応えてきました。 
これも現実です。