《0564》 「一般庶民」にも考えて欲しい [未分類]

昨日は、大阪府枚方市の病院で、在宅医療や
看取りに関する講演をさせていただきました。
週に2~3回のペースで、講演しています。

そこで必ずする話が、「胃瘻」の話です。
私は老衰での「胃瘻議論」から、終末期医療を考えようと
毎回、提案しています。

しかし、この議論は思ったより、難しい。
世の中には実に様々なご意見があります。
今日は、「だいふく餅さん」の投稿コメントにお返事します。

【562回】なぜ、待ったなしなのか――コメントに回答


【投稿者】 だいふく餅(ID:874078)
【コメントタイトル】 延命治療は基本的人権侵害か
【コメント本文】

(長文を失礼します)

尊厳死法案は医療者側の免責を求めるものだと聞きました。

原案そのものを読んだわけではないのでよくわかりませんが、医療者側の免責と自己決定権の実現とがうまく符合したときに、この法の趣旨が生かされると考えています。医療者が「延命こそ医療側の義務」と考えるなら、また本人が「こう逝きたい、こう生きたい」という気持ちが未成熟なら、いずれも該当しなくなります。

長尾先生のスライドの中に「カレン事件」を見て、これが発端なのか、古い事件だなあ、不遜なことですが懐かしいと思って見ていました。カレンさんはリード線やチューブがたくさん付けれらて生命を維持していた。その植物状態を見かねた家族が主治医にこれらの付属物を外すことをお願いした。そういう事件でした。実際にすべて外されて、生命維持装置がなくてもしばらく生きていたはずです。この頃から「スパゲッティ」という表現が生まれたと思います。

家族が見かねるほどの医療処置、つまり本人がこれでほんとうに幸せだろうかと疑問を持たせてしまう状態に置かれること、これが基本的人権の侵害につながったわけですが、医療者は生命を維持する方向に働きかけるので、ここで両者に対立構造が生まれてしまった。片方は殺人罪とも自殺幇助とも恐ろしい名称になり、片方は基本的人権の侵害という名称になってしまった。この対立を解消するために尊厳死の意志の明確化を条件に免責しようという法だと考えています。医療者側が常に殺人罪と背中合わせになるために、法制化しないと決して進まないでしょう。協会が躍起になっているかどうか知りませんが。

議論を読んでいると、医療費の高騰、家族の思惑、家族の負担への配慮(心遣い)、治療の安易な放棄、そんなにたくさんの尾ひれが付いて話が雪だるまになっていますが、根っこは基本的人権の尊重であること、自分がどう生きたいか、どう逝きたいか、そこにかかっています。それらの尾ひれと自分の生命のあり方を天秤にかけることはそもそもは間違いと思っていますが、一般庶民にはどうも周辺のことが気にかかって仕方がない。一人で生きているけわではないので。

私自身についても、この先、何十年の間にも自己決定が揺さぶられるだろうし、治療の安易な放棄や家族の思惑が解消できているかと言えば、ゼロではない、正直言って。一人で生きていけるわけではないので、賛同できる方々を周囲に集めて守備を固めて、やっと自己実現か。数年前に父をみおくって、さて私の番だと思ったときにいくつか用意しておく必要があろうと思った次第です。

 >尊厳死法案は医療者側の免責を求めるものだと聞きました。

医療者側から言えば、訴えられないために
延命治療をするのです。
あるいは、中止できないのです。

これは患者さん側には理解しにくいことでしょう。
訴えられるのは医師で、訴えるのは患者さん側です。
医師が患者を訴えたという話は聞いたことがありません。

今回、医療者側の「免責」から求めるのが分かりやすいと
考えて、そういう方向になっているようです。
その方が、具体的で実効性があるからです。

>医療者側の免責と自己決定権の実現とがうまく符合したときに、

患者さんの自己決定権が圧倒的に優先すると思います。
しかし、自己決定権を前面に出すより、医療者側の免責が前面に
出る方が、分かり易いのではないでしょうか。

「免責」と「決定権」は、同列ではないと思います。
従って、「符合」という表現も私には違和感があります。
仕方なく、「免責」から議論していくと考えています。

>医療者が「延命こそ医療側の義務」と考えるなら、

私の感覚では、そのように考える医師は少数(1割以下か)
だと思います。
但し、経営上からそう考える医師はいるかもしれませんが。

>本人が「こう逝きたい、こう生きたい」という気持ちが未成熟なら、
>いずれも該当しなくなります。

本人の意思は本人でないと分かりません。
医療は受け身です。
ただ、仰せのように「未成熟」だと感じます。

「未成熟」なら「該当しない」とのことですが、
確かにそのとうりです。
逆に言えば、「成熟」していたら、「該当」させてもいいのでは。

自分の親の胃瘻の是非を、ある有識者に問うたことがあります。
説明を聞いて、長い間、考えた末の結論は、
「私には決断できません」でした。

「どうしてそんな大切な問題なのに自分で決めれないのですか?」
としつこく聞いてみました。
すると、最後にこのような答えが返ってきました。

「私は自分の手を汚したくないのです!」

振り絞るような声で彼は叫びました。
「ちょっと待って!」と、私は言いました。
「じゃあ、私が手を汚す訳?・・・」

ふと、こんなやり取りを、思い出しました。

>本人がこれでほんとうに幸せだろうかと疑問を持たせてしまう状態に
>置かれること、これが基本的人権の侵害につながったわけですが、

基本的人権とは、まず本人の意思だと思います。
家族や他人の判断より、本人の意思が優先する。
少なくとも、日本尊厳死協会は、本人の意思のみが対象です。

>この対立を解消するために尊厳死の意志の明確化を
>条件に免責しようという法だと考えています。

まさに、仰せのとうりです。

>医療者側が常に殺人罪と背中合わせになるために、
>法制化しないと決して進まないでしょう。

これも、まさに仰せのとうり。
>協会が躍起になっているかどうか知りませんが。

協会が躍起になっているのではなく、
そもそも法制化を目指す集まりが日本尊厳死協会です。
せっかく書面に残しても法的効力が無ければ意味が無い。

日本尊厳死協会は、現在、一般社団法人です。
協会員は「社員」とされ、最高議決機関である
「社員総会」で、活動方針が決定されています。

会員が多いので、各支部単位で代議員が選挙で選ばれます。
代議員は9つの支部単位で会員数に応じて会員による選挙で
選ばれ、現在68人います。

社員総会のもとに業務執行の決定にかかわる「理事会」があります。
一部の人間が独裁しているわけでもなく、一般社団法人としての
規則に基ずいて運営されている組織です。

>一般庶民にはどうも周辺のことが気にかかって仕方がない。
>一人で生きているけわではないので。

後段は大変、重要なご指摘だと思います。
LWにおいては本人の意思が最重要ではありますが、
家族の同意も重要な要素であると考えています。

ただし、「一般庶民」という言葉は相応しくないのでは?
「死」は、一般庶民であろうがなかろうが、関係無い。
また、「死」は誰かのせいではなく、自然の摂理です。

庶民だから分からない、庶民だから決められない、
だから医者に任す。庶民は手を汚したくない。
その挙句が、現状なのです。

だいふく餅さま、今日の資料に使わせて頂き
申し訳ありません。
貴重なご意見、本当にありがとうございます。

おそらく多くの人の意見ではないかと思い、
引用し、コメントを書かせて頂きました。

私なりに、ポイントは、

  • 「一般庶民」が、「死」に向き合ってくれること
  • 家族の意思をどう位置づけるか(これは難しい)

であると思います。