《0578》 ある若者の思い出(その3) [未分類]

ひとごみをかき分け、かき分け、中に入っていった。
ひとごみの中心は、いつものメンバーと家族が囲んでいた。
呼吸停止の電話を受け取ってから30分以上経過していた。

おもむろに、「死亡確認」をしようとした。
昔から死の3兆候というものがある。
呼吸停止、心停止、瞳孔散大。

しかし、呼吸が止まっていたら、普通は死んでいる。
しかし、「死んでいるか生きているか」を判定するのが
この場に及んだ医師に課せられた、唯一の仕事だ。

だから、慌てずに落ち着いてやるようにしている。
呼吸停止と分かっていながらも、聴診器を胸にあてようとした。
意味は無いと分かっていても、形式的と分かっていても必要な「儀式」。

しかし、そこで、彼は小さく息をしたのだ!
私は、100%死んでいると思っていたので、正直、驚いた。
「まだ、生きていますやん!」

まさか、電話をしてきた母親に文句をいう訳にもいかない。
「死んでいるどころか、ちゃんと生きているじゃない」
と思いながら、「大丈夫です。まだ生きていますよ」と「群衆」に説明した。

よく診ると、声をかければ目を開けて、問いかけに頷くこともできる。
死の前には、「チェーンストークス呼吸」を経ることがある。
呼吸が大きくなり、やがて小さくなり、少し止まる。それを繰り返す呼吸。

あるいは、「無呼吸」が生じることも、よく経験する。
1~2分位呼吸が止まれば、誰でも呼吸停止だと思ってしまう。
ずっと診ていたら、医療者なら下顎呼吸を経たかどうかで鑑別できるが。

落ち着いて周囲を見渡すと、友人たちだけでは無い。
老若男女が入り乱れている。
ご関係を聞くと、ご近所であったり、小学校、中学校の先生で会ったり様々だ。

持ち込んだ死亡診断書を隠すように車に持ち帰った。
一旦、クリニックに帰り1時間ほど、待機してから帰宅した。
深夜の夕食を食べていると、また、携帯電話が鳴った。

「先生、今度は本当に、呼吸が止まりました」と母親の静かな声。
さっき帰ったばっかりの道を、引き返した。
「群衆」は、2~3時間、そのまま、祈り続けていた。

デジャブのごとく、また人ごみをかき分け、彼のもとに到着した。
「群衆」は、息を殺して、私の「発声」を待っていりる。
ところが、さきほどと同じように、彼はかすかに息をしていた。

まさか、怒るわけにもいかない。
静かに、さきほどと同じことを話してその場を去った。
一瞬クリニックで仮眠しようかとも思ったが、帰宅を選んだ。