先日見た演劇「死に顔ピース」では、親と子が看取っていた。
現実には孫やひ孫のみならず、
夜叉孫にも囲まれてた看取りがあった。
5世代に見守られる在宅看取りは、圧巻だった。
夜叉孫を見るためには、相当長生きしなくてはいけない。
普通に考えると、90歳代まで生きることが条件だろう。
そしてめでたく5世代に診守られての旅立ちが実際にある。
想像して欲しい。
それぞれの世代に何人もの家族がいる。
ネズミ算式と言えば怒られるかもしれないが、相当な人数になる。
人数に驚くことは時々あるが、5世代に驚くことは珍しい。
その大往生を見たときに、思わず写真を撮るように言った。
こんな機会はめったに無いだろうから。
大人数で看取る場合は、大人数が横になる場所が必要だ。
病院のボンボンベッドには、1人しか寝れない。
待合室の長椅子で寝ると風邪をひく。
一方、自宅なら何人でも寝れる。
狭くても暖さえあれば、雑魚寝が出来る。
在宅は看取り家族にとっても有利なのだ。
亡くなる前の1~2日を耐えられるかどうか。
そこだけが課題だ。
精神的に弱い家族には、あまり在宅を勧めない。
しかし大家族であるほど、在宅を勧めたくなる。
その「死」が孫やひ孫の記憶に一生残るからだ。
その記憶は、やがて「死生観」のベースになる。
「ゆとり教育」ならぬ「看取り教育」と、勝手に呼んでいる。
亡くなったばかりのおじいちゃんの顔を触る孫の表情を
見ていると、なんとも言えない荘厳な気持ちになる。
今週も、亡くなったおじいちゃんを見て泣いている
孫の顔を見て、なぜか思わずもらい泣きをしてしまった。
大人が泣くのはなんともないが、子供が泣くとさすがに辛い。
亡くなってから記念撮影することが、ある。
亡くなったひとを家族で囲んで記念写真を撮るのだ。
「はい、ピース!」
これ以上の想い出の写真はないだろう。究極だ。
「死に顔ピース」はそんな在宅の原点を思いださせてくれた。
「在宅死」とは、記憶に残る「死にざま」。