西洋は白か黒かという文化。
しかし日本は、灰色がある。
曖昧さがよしとされる場合もある。
看取りの現場で医者が使う言葉は微妙。
些細な言葉尻を家族は微かに感じ取る。
医療者も感じてもらっていることを感じる。
延命治療の手綱をゆっくり緩めることが、ある。
最期の夜と説明したあとに、もはや点滴はしない。
呼吸が止まっても、黙って診ている・・・
本当に止まった!
と思った瞬間に大きく一息つく。
ビックリして眺めていると、それが最期の息だった。
人間の最期に線を引くのは辛い仕事。
しかし線を引くのが、医者の役回り。
とりあえず、引いておく。
医者がゴチャゴチャ言わなくても分かってくれるご家族がいる。
「先生、もう充分ですよ」といいタイミングでタオルを投げる。
まさに医師との「阿吽の呼吸」で日本人は死を乗り越えて来た。
いつしか、西洋の分析医学が入って来た。
看取りも心電図モニターが行ってくれる。
医療者も家族も心電図の方を向いて死を判定する。
在宅看取りでは、心電図モニターも医療者もいない。
阿吽の呼吸で、医療者や家族が死を見届ける。
そこには、グレーゾーンが存在する。
呼吸が止まってから医師が到着して死亡確認
するまでの僅かな時間。
この「あわいの時間」こそが看取りの文化そのもの。
阿吽の呼吸があれば、法律なんて不要、無用。
しかし、そんなものを理解しない人には、
法律という規則で死を定義する必要がある。
阿吽の呼吸での在宅看取りは本当にある。
患者さんも家族も医療者も全員が
ハッピーになる在宅看取り。
終末期医療に関する法律の作成に関わっている。
今夜も、その議論のために最終電車で上京する。
先人たちは気の遠くなる議論を繰り返してきた。
しかし、阿吽の呼吸ですむならば法律は要らない。
しかし、どう考えてもそんな時代ではない。
また、もはやそのような国でもない。
複雑な思いで、「阿吽の呼吸」という言葉を眺めている。