「臨終に間に合う」という言葉がある。
日本人は、死に際に殊更こだわりがある。
それまで余り来なかったひとでも死に際には拘る。
臨終に間に合うことでそれまでの不義理を帳消しに
しようとしているのでは?とさえ勘ぐる時がある。
それくらい、死に際に拘るひとが多い。
一瞬遅くて間に合わなかった場合は、
「ごめんね、間に合わなくて!」と泣き崩れる。
こちらとしても間に合わなかった責任を感じる。
大昔は、何時間も心臓マッサージを続けささせられたこともあった。
親戚らが遠くから来るのでそれまでは何としても生かせて欲しいと。
携帯電話が無かった時代、あてもない単純肉体労働に半日費やした。
現在でも少しでも間に合うようにと時間稼ぎをする時がある。
携帯電話でほぼリアアルタイムに状況を聞きながら訪問する。
家族の到着がまだの場合は私の車の速度を緩めることもある。
私が先に到着すると、死亡確認になってしまうので、
「死に際に間に合わなかった」ことになってしまう。
できれば、大切な家族の到着後にその家に入りたい。
亡くなった時間の確定には2通りある。
家族が呼吸停止を確認した時間と、
医師が死亡確認をした時間。
予想された死については、どちらを採用しても構わない。
予め、家族とどちらで行くか決めておく場合もある。
時と場合によって両者を使い分けているのが実情だ。
両者があまりにも乖離していたら不自然だが、
1~2時間程度ならその裁量はありがたいと思う。
その「あわいの時間」こそが、最も大切な時間。
臨終に間に合うかどうか。
上手く臨終に立ち会えた家族からは感謝の言葉を頂く。
そんなことで感謝されても、困るのだが・・・
医者として複雑な気分になる。
死は、時に、家族のためのもの。
臨終に間に合わせるよう配慮するのも医者の仕事。
特に、在宅の場合は、最期の最期への配慮も大切。