《0609》 「苦しみはありますか?」 [未分類]

亡くなる寸前になってはじめて意識レベルが低下する。
末期がんの場合、死の直前まで意識があることも多い。
臨終の30分前までお喋りをしていた人が何人もいた。

何日も意識不明になるのは、テレビドラマの世界だ。
実際は驚くほど直前まで、会話ができるのだ。
そして意識低下と下顎呼吸がほぼ同時に起こる。

ここまで来てはじめて、患者さんの横で
ご家族と「死」の話ができる。
それまでは意識があるので「死」の話は別室で行う。

別室が無い家なら、家の前や近くの公園で行うことも。
以前書いたように「死の講演」をする場が必要なのだ。
絶対に、本人に聞こえない場所でなければいけない。

本人が難聴の場合は、失礼だが大変助かる。
大きな声で話しても、本人には聞こえない。
即席の「講演会場」探しも意外に大切な仕事。

ここでほぼ全員に聞かれる質問がある。
「今、本人は苦しくないですか?」
「苦しくないですよ。もう意識がありませんからね」

こんな訳の分からない説明に、ご家族は
「よかった!!」と、大変喜ばれる。
ご家族としては「苦しみ」だけが心配なのだ。

反対に、家族のための点滴、家族のための胃瘻注入、
家族のための抗がん剤服用などを
最期まで続けなければならない場合も時々ある。

本人が望んでいない延命処置を家族の承諾なしに
中止することは医師にはできない。
訴追される可能性があるからだ。

ならば承諾があれば?
それでも中止できない医師が、大半だろう。
あとで家族の気が変わる可能性があるからだ。

在宅療養を諦めて、病院での最期を選択する家族が多い。
沢山の管をつけられて、手足を縛られて、
最期は麻酔をかけられて死を迎えるのが大半。

それでも家族は満足している場合が多い。
「最善をつくして頂いたので後悔はない」
というが、本当だろうか?

自分自身に同じことを許すのか?
そう問いたくなる時もある。
自分は嫌だけれど、家族にはOK!?

その結果が、驚くほど増えた延命処置だ。
超高齢・多死社会を前に、考え直すべき時ではないか。

本人の意思はどこまで通るのか?
家族の意思は、どこまで尊重されるのか?

いずれにせよ、「苦しみを除く医療行為」(緩和医療)が
根底・中心にあるべきだと、現場の人間として感じる。
高齢者医療は、延命より緩和を重視すべきだ。

たしかに人為的に意識を落とせば苦しみは無くなる。
そうではなく、意識を保ったまま、尊厳を保ったまま
苦しみを和らげるのは、まさに医療技術だと思う。