《0617》 死の外注化 [未分類]

認知症終末期の胃瘻の是非について息子に聞いてみる。
「分からない」、「決められない」ならまだいいが、
「私は手を汚したくない」と堂々と返ってくる。

そう、在宅医療とはまさに「手を汚す医療」なのだ。
ウンチで手が汚れるだけでなく、気持ちが汚れる。
いや「汚れる」という表現は適当ではなく「関わる」が正しいか。

治療と延命処置の間に線を引くのは実際には難しい。
死ぬ瞬間まで「治療」が継続していることが普通だ。
どこかで線を引くのは医者も家族も勇気が要る作業。

不治かつ末期になったとき、病院に預けることは、
「死」の周辺を医療者に全部任せることでもある。
私も含めて忙しい現代社会ではそれが普通の感覚だろう。

死の外注化。
死が医療者にお任せになっている。
家族は傍観者であり、直接は関わらない現代。

しかし、自宅での看取りでは、直接関わる。
関わるどころか、当事者そのもの。いや、被害者か。
こんなに煩わしことはない。

仕事も家庭もプライベートも全て犠牲にする家族。
当事者であるというより、「被害者」かもしれない。
よく考えてみれば、大変な作業を命じている私たち。

年末の寒い中でも「よろず相談室」には相談者がやってくる。
白い息と車の騒音の中、交わされる会話は大体決まっている。
極論すれば家族の最期を自前で受け止めるか、外注するかだ。

自前の人のために、ケアマネガいて介護保険がある。
訪問看護師もヘルパーもボランテイアも存在する。
「ひとりじゃないんだよ」の一言で決断される方がおられた。

PS)
寒いですね。
尼崎でも震えています。
被災地の寒さは半端じゃないんでしょうね。

年末になると、病院からの在宅依頼が急に増えます。
え?こんなにいっぺんに?
もう少し早く言ってくれればいいのに・・・

介護用ベッドも無い。
ああ、介護保険の申請もまだなので当たり前か。
でも市役所が長い休みになるので急がなきゃ。

そんな慌ただしい毎日を送っています。
忘年会も終盤戦。
飲みすぎないようにお過ごしください。