《0621》 看取り問題と普天間問題 [未分類]

普天間問題は紆余曲折して、結局結論が出ていない。
結論を先送りしたいという気持ちをどこか感じる。
この気持ちは「死」の先送りと似ているといつも思う。

在宅と病院を行ったりきたりする老人が実に多い。
治癒する病気なら当然だが、最期まで行き来するひとや、
予想どうり息が止まってからでも救急搬送する家族もいる。

長生きすれば終末期の胃瘻問題が必ず迫ってくる。
これも、家族が結論を出るべき課題だ。
しかし、「先生にお任せします」とくる。

すべては現実を直視することから始まる。
不治かつ末期、あるいは高齢による人生の終末期。
そこで、延命治療を選ぶか選ばないか。

現在の日本国の国民皆保険制度は、
延命治療を希望しても希望しなくても、OKだ。
そこには、選択の自由がある。

しかし、選択できない、決断できないひとが多い。
自由であることが重荷だ、と漏らすひともいる。
インフォームドコンセントという言葉が虚しく響く。

胃瘻はいやだけど、点滴で延命してください。
胃瘻はいやだけど、鎖骨下からの高カロリー輸液はしてください。
胃瘻はいやだけど、鼻からのチューブ栄養で延命してください。

病院はこうした患者側の「歪んだ要求」にも黙って従っている。
そして歪んだ形は、最終的には在宅医に降りてくる。
おかしいと思っていても、おかしいと言えないのが末端医だ。

「先延ばし」の習慣が、医療においてもはびこっている。
いくら考えても結論が出ないのでとりあえず先延ばししておく。
良い先延ばしならいいが、意味の無い結論の先延ばしは困る。

普天間問題の迷走ぶりを見ていると、「決断できない日本人」を
象徴しているように見える。
全然関係の無い2つを一緒にすることは不謹慎かもしれないが・・・

高台移転か、平地に戻るか?
原発維持か、脱原発か?
消費税増税か、先延ばしか?

医療界も、さまざまな先延ばしできない課題に対峙している。

延命治療か平穏死か?
病院死か在宅看取りか?
なども、その延長戦上にあるものだ。

前者は政治課題で、後者は家族の個人的課題。
しかし政治課題と言っても、所詮は人間の決断だ。
決断できない、弱くなった日本人が溢れてきた。

人生は選択の連続であるという。
終末期医療は、まさに選択の連続だ。
その選択とは、市民にしかできないものでもある。

PS)
今夕は、あるグリープホームで講演します。
まさに看取りかどうかを選択、決断するために
必要な基礎知識を分かり易く伝授します。

基礎知識が無いと、選択できませんからね。
実はこのブログも、選択のための基礎知識になると
思いながら書いています。

私の役割は、みなさまに分かり易く伝えること。
現場の人間だからこそできる、この与えられた役割に
とても満足しています。

今年もあとわずか。
連日インフルエンザの患者さんで混んでいます。
みなさまも、年末の健康管理にお気をつけください。