《0625》 9カ月後の気仙沼より [未分類]

一昨日、元旦から宮城県気仙沼市に来ています。
年末年始はいつものように深夜まで往診していました。
元旦も昨年同様に往診を終えてから気仙沼に来ました。

面瀬中学校の校庭にある仮設住宅の集会所で
新年の3日間をボランテイアとして過ごしています。
日本ホスピス在宅ケアの黒田裕子さんに呼ばれました。

東京の大学生や社会人ボランテイア数人と一緒です。
彼らは継続的に仮設住宅入居者のケアを行っています。
そこには、高齢者や要介護者がたくさんおられます。

毎朝6時半からラジオ体操、そして巡回訪問、健康相談。
仮設住宅の近辺の避難者も巡回して傾聴しています。
昨日は黒田さんについて数件の避難宅を回りました。

皆様に共通するのは、津波の記憶。
窓の外を見られない、
海が怖い、と全員が言われました。

海辺に住んでいた人は海辺には絶対に戻れないと言われました。
高台に移って、カエルの鳴き声を初めて聞いたとも言いました。
眠れない、イライラする、などのPTSDが全員にありました。

家が流された人と無事だった人の格差も気になります。
また中途半端に残って、大規模補修した人は
現在、二重ローンに苦しんでいます。

子供たちは、川の近くでも怖がります。
津波が駆け登るイメージがフラッシュバックするから。
一昨日の地震でも怯える子供もいました。

一見、とりあえずの平穏を取り戻したように見えます。
しかしよく聞くと、経済的、精神的に大きな大きな
傷跡がまだパックリ開いていることを実感しました。

気仙沼の市街地は前回訪問した4月と変わっていません。
まだ津波の水が残っている場所もあります。
海の近くは、夜になるとまだ真っ暗です。

全壊したホテルの経営者とも話込みました。
現在、復興計画中で手が付けられないとのこと。
阪神大震災の時も区画整備に10年かかりました。

「復興」という言葉から、まだまだ遠いと感じました。
しかし気仙沼の人たちは明るく前向きでした。
ちなみに、尼崎市は気仙沼市を支援しています。

年末年始も集会所で寝袋で雑魚寝の大学生たちがいる。
実家が気仙沼でも一度も帰らず集会所で年を越す若者。
彼らに日本の未来の「光明」を見たことが救いでした。

元旦も2日も、学生たちと深夜まで話込みました。
被災地の復興、医療・福祉の将来、日本の将来・・・
若い力こそ、日本の宝です。

正直、もっともっと大きな支援が必要です。
大きな悲嘆が、気仙沼のあちこちにありました。
これからが支援の本番だとあらためて思いました。