先日、ある患者さんの看取りのため訪問しました。
といっても、息を引き取ってから3時間後でした。
東京から帰阪する新幹線の中で連絡がありました。
部屋に入るとなんだか、いつもと違う空気を感じました。
家族の他に、葬儀屋さんが2人、私を待っていました。
まあ、それはよくあることですが。
その2人の雰囲気が、いつもとどこか違う。
どことなく優しげで心が和むような雰囲気。
微かな微笑みを、私は見逃しませんでした。
珍しく名刺交換しました。
なんと、カトリック専門の葬儀屋さんでした。
その後、家族を含めて意気投合しいろんな話をしました。
既に祭壇が飾られていましたが、これもいつもと何か違う。
よく見るとキリストがかけられた十字架が置いてあります。
この患者さんは熱心な信徒さんで葬儀屋さんとも教会仲間。
家族に先だって教えられるままに御遺体に聖水を振りかけました。
みんなと一緒に祈りを捧げました。
死の直後の祈りの言葉が、まるで楽譜のようにみんなに配られた。
何ケ月も関わってきたのに、教徒であることすら知らなかった。
自分の無知を嘆きました。
しかし、みなさんと一緒に、死後の儀式に参加できて良かった。
「カトリック教徒は延命治療をしないので在宅看取りが多い」
神父さんのような葬儀屋さんにそう聞かされて、驚きました。
今まで、自分が気づかなかっただなのかな?
28年前の研修医時代の記憶が蘇りました。
キリスト教のお偉い方が、病院で亡くなりました。
個室から溢れたひとも、みんな一緒に歌を歌っていました。
歌で、旅立ちを見送るのか・・・
数年前、仏教看護ビハーラ学会が大阪・四天王寺で開かれた時、
宇治の平等院の偉いお坊さんが「臨終儀式」を教えてくれました。
数珠のお化けのようなものをみんなで回しながら、祈るのです。
実際、在宅看取りの場でこれと同じことをやったことがあります。
もちろん、まだ生きている時に、みんなでお経をあげるのです。
無理やりではなく、みなさんの総意で自然とそうなったのです。
知らない人が見たら、「まだ生きているのに」と思うかも。
しかしキリスト教の方が歌を歌うのと同じように感じます。
要は、旅立つ人を見送るのは「心」であって形式ではない。
そう感じました。
看取りに3時間遅れたお陰で貴重な体験をさせて頂きました。
そして28年前の記憶を、ゆっくり辿ることができました。