《0818》 カトリック教徒の看取り [未分類]

先日、ある患者さんの看取りのため訪問しました。

といっても、息を引き取ってから3時間後でした。

東京から帰阪する新幹線の中で連絡がありました。

 

部屋に入るとなんだか、いつもと違う空気を感じました。

家族の他に、葬儀屋さんが2人、私を待っていました。

まあ、それはよくあることですが。

 

その2人の雰囲気が、いつもとどこか違う。

どことなく優しげで心が和むような雰囲気。

微かな微笑みを、私は見逃しませんでした。

 

珍しく名刺交換しました。

なんと、カトリック専門の葬儀屋さんでした。

その後、家族を含めて意気投合しいろんな話をしました。

 

既に祭壇が飾られていましたが、これもいつもと何か違う。

よく見るとキリストがかけられた十字架が置いてあります。

この患者さんは熱心な信徒さんで葬儀屋さんとも教会仲間。

 

家族に先だって教えられるままに御遺体に聖水を振りかけました。

みんなと一緒に祈りを捧げました。

死の直後の祈りの言葉が、まるで楽譜のようにみんなに配られた。

 

何ケ月も関わってきたのに、教徒であることすら知らなかった。

自分の無知を嘆きました。

しかし、みなさんと一緒に、死後の儀式に参加できて良かった。

 

「カトリック教徒は延命治療をしないので在宅看取りが多い」

神父さんのような葬儀屋さんにそう聞かされて、驚きました。

今まで、自分が気づかなかっただなのかな?

 

28年前の研修医時代の記憶が蘇りました。

キリスト教のお偉い方が、病院で亡くなりました。

個室から溢れたひとも、みんな一緒に歌を歌っていました。

 

歌で、旅立ちを見送るのか・・・

 

数年前、仏教看護ビハーラ学会が大阪・四天王寺で開かれた時、

宇治の平等院の偉いお坊さんが「臨終儀式」を教えてくれました。

数珠のお化けのようなものをみんなで回しながら、祈るのです。

 

実際、在宅看取りの場でこれと同じことをやったことがあります。

もちろん、まだ生きている時に、みんなでお経をあげるのです。

無理やりではなく、みなさんの総意で自然とそうなったのです。

 

知らない人が見たら、「まだ生きているのに」と思うかも。

しかしキリスト教の方が歌を歌うのと同じように感じます。

要は、旅立つ人を見送るのは「心」であって形式ではない。

 

そう感じました。

看取りに3時間遅れたお陰で貴重な体験をさせて頂きました。

そして28年前の記憶を、ゆっくり辿ることができました。