《0912》 宮城県レポート・第3弾です [未分類]

知人である日本福祉文化学会関西ブロックの
岡村ヒロ子さんが被災地から帰阪されました。
大阪府茨木市で、つどい場をされています。 

彼女は、はじめて被災地を訪問されました。
そして、ボランティア活動をされました。
え? 今頃? と思われる方もいるでしょう。 

しかし「支援の本番はこれから!」なのです。
以下、彼女のレポートを読めば理解できます。
私も3度行ったのでだいたいの想像がつきます。 

気仙沼の大島に拠点を置くことになったらしい。
私が企画した震災のドキュメンタリー映画にも
大島の様子が登場します。 

私の映画のエンディングも「大島の女性」でした。
知人の岡村さんと、気仙沼でもご縁ができました。
みなさん、ながーい支援をしていきましょう。 

私は、今日の午後は、都内で宗教界の方に招かれて
講演とシンポジストを半日、務めています。
この1週間は日替わりでいろんなことをしています。

地域の絆の形成・復活・強化支援バスツアーレポート
岡村ヒロ子

1.被災地の風景、状況を見て感じたこと
・南三陸町
何にもない……、その風景にただ呆然と佇むだけだった。
防災センターで最後まで避難するように声を振り絞った
遠藤さんの声が聞こえるような思いがして胸がつまった。
私たちのグループがバスからぞろぞろと降りて防災センターに
カメラを向けた時、付近で泥かきをしていたボランティアの方から
「どんなグループか?」と聞かれた。

明らかに不快な表情をなさっていた。現地入りする時はあらかじめ
こちらの真意をきちんと伝えたうえで訪問するのが最低限のマナーだと気付いた。
配慮に欠けていたことが悔やまれた。

決して物見参でカメラのシャッターを切ったのではない。
しかし、現地の方からすればあの地にどれだけの人々の御霊が
のみ込まれたかを思うと観光バスで乗り付ける多くの人々にどんな真摯な意図
あろうと憤懣やり方ない気持ちに駆られるのだと思った。

しかし、私たちには“現地に入ることのできない人々に惨状を伝える”
という役割があることも事実だ。

・気仙沼大島
船着き場に積み上げられたがれきの袋に爪跡の大きさを感じた。
一年半たっても山積み状態である。行き場のないがれきの現実は大島にもあった。
フェリーが不通だった時、島の方々は完全に孤立していた。
内地の人々からは“火の手が上がった時、島は全滅した”と思われていたという。
人間の思い込みは怖い。
4月初め、アメリカの救助隊が入った時、戦争が始まったかと思ったという

島の人の話に妙な真実味があった。

救助の手が入らない数週間、島の人々が修羅場を必死に
生き抜いていた光景は、想像を絶する。

・気仙沼階上・鹿折・岩井崎海岸
一年前に伺った時はいたる所、路肩が崩れ、地盤沈下していた。
沼のように冠水し、家具や多くの生活物資が散乱していた。
崩れた家から、人が出てきた時は「あっ、ここには生活があったんだ」と、
ふと我に返ったことを覚えている。

今年はほとんどの建物が撤去され、そこここに仮設の店舗が建ち、
活気があふれていた。

きれいに片付けられた町の光景は外部から来た
私たちにかえって物悲しさを与えた。

岩井崎海岸では200Mにわたって崩れた堤防に砂袋が積まれていた。
高い堤防だと景観が損なわれるし、今の高さでは津波に耐えないし……。

一階部分が滅茶苦茶になった民宿が再建中だったことに感動したが、
甚大な被害にあっても地元の方々は海と共に生きることに強さを
超えた人間の執念さえ感じた。

・陸前高田
鉄骨の建物だけは残り、民家はすべて流され一面、
野原と化していた。コスモスはどこに咲いても美しくて強い花だ。
どれだけ被災地の人々の心を、そして訪れる人々を救ったことだろう。
メインストリートは向こうの山まで何の障害物もない、
この道を山を目指して駆け抜けた人、途中で力尽きた人も多かったのだろう。

山まではあまりに遠い……。
高台が少ない広い平地を津波は暴れまくり、
人々の生活を奪ってしまった……。

将来のみえない今にどれだけの人々が苦悩しているだろうか。

2.被災者との交流、話で印象的だったこと
・気仙沼大島
「火の波が押し寄せ、燃え狂う炎はこの世のものとは思えなかった。
消火の水が底をついた時、“島を捨てる覚悟”をした」という言葉は
「死を覚悟した」と同じ意味をもつのだと思った。
あきらめずに消防団員、島民が知恵を出し合って
一致団結して消火させたということだ。

5日間燃え続け、6日目にやっと鎮火、皆で島を守ったのだ。
その間、寝ずの消火作業で流されたお父様を探しに行けない、
そんな思いを“さぞ断腸の思いだったでしょう”などと簡単には言えない。

言葉の無力さを思い知った。
「どこを探しても父を見つけることができない。
その時、涙がどっとあふれてきて止まらなかった。

泣きはらした赤い目を子供達に見せられないから
陸にあがって売れ残ったガムを買いあさって大島に帰った……」とのこと。
はちきれんばかりの胸の内だったに違いない。

・気仙沼屋台村で出会った方
「救援物資で鉛筆をいっぱいもらったんだけれど、
鉛筆削りがないんだわ。
中古でもいいから鉛筆削りが欲しいといっちゃったよ。
これって笑えないよね」
本当のニーズって当事者じゃあないと分からない。
自分の思いだけで物資を送るのではなく、
“相手の方が何を希望しているかきちんとお聞きすること”は
最低限のマナーだということを送り手は忘れがちだ。

その方が何気なく「被災地では新しい貧困が今、起こっている」と口にした。
とても意味深い言葉である。具体的にどんなことを意味するのか、
就労問題、住居問題、補償金問題、教育問題等々、
これらは決して被災した方々だけの問題ではない。

たまたま顕著に表面化しているだけである。
社会問題として考えていかないといけない。

・陸前高田
「市役所の無線が壊れ、津波を知らせる警報を出すことができなかった」
という事実、これは衝撃だった。
消防隊の方々は、津波が来るから避難するように、町中を一生懸命に
知らせて回っても、追いつかなかった……。

避難所はあくまでも地震のための避難所で
津波のためのものではなかった……、
まさか一時間後にあんなに大きな津波が来るなんて
予想だにしなかったのだろう。

「地震と津波はセットで来る、それを忘れたんだ……。
ここは津波の常襲地なのにね……。チリ地震の津波にも遭っているのに……」

「避難する時には頑固は捨てないとだめだよ。
避難するようにいっても津波なんかこないといっていうことを
聞かなかった人が結構いたんだ……」たんたんとおっしゃる

一言一言に、むしろ悔しさが伝わってきた。

「『地震が起きたらとにかく山へ逃げろ』を日本中の合言葉にしたいね」、
本当にその通りだ。

体育館・博物館・図書館前の広場には海から引きあげられた大きな重機や
乗用車が無残な姿になって何台も置かれていた。
重機には貝がびっしりへばりつき、乗用車からは草が伸びていた。

「この壊れた建物はメモリアルとして残さな意味ない。
無くなったら皆、忘れてしまう……。

広島は原爆ドームを残した、だから皆行く、忘れない。
長崎は残さなかった……。

壁に亡くなったお母ちゃんへの思いを書き綴った女性がいる、
建物を残すことを希望したが市は聞き入れず、壊すことが決まった……。

壁を残せばいいということではないという女性の思いは通じなかった……。
陸前高田はこれまで何回も津波に遭っているのに何にも残してこなかった……」と。

国は県は市は町は、一体人の心をどう考えているのだろうか。
「災害から何を学ぶか」多くの分野で言い続けられている。
ハード面で災害に強い町を作ればいいというものではない。
もし、行政が大きな勘違いをしているのであれば、声を出していくのは私達だと思う。

3.今後、どのような東北支援をするか
所属する日本福祉学会では、今年の9月10・11日に
気仙沼大島で現場セミナーを行った。
参加者のレポートから、「大島の女性がとにかく疲れている」ということがわかった。
大島のお母ちゃん(女性)達は自らも大変な思いを抱えているのに、
子供達、男性、高齢者達の不安定な思いを一手に受け止めている。

多くのしわ寄せが女性に集中しているのだ。
女性は自分の思いをぶつける所がない、
そのような状態にあることを誰が思い図っているだろうか。

子供達は地震がトラウマとなっておびえ、1階で寝たくないといい、
男性は仕事を失い、高齢者は先の見えない悲荘感に襲われ、

それぞれが不安を抱えている。
その思いを全部お母ちゃん(女性)にぶつける。
たまったものではない。

学会では、子供達が元気になることが鍵を握ると考え、
今後は大島に拠点を定めて関西ブロックが中心となって
支援していくことを計画している。

春・夏の長期の休みには子供たちを関西に招き、野外活動等で思い切り遊ぶ場を提供、
大島のお母ちゃん(女性)達、高齢者の方々へはこちらから島へ出向き、
それぞれの気持ちを吐き出していただけるような居場所作りをしたいと考えている。